あやめの里便り

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和田嶺(わだれい)合戦

2016-10-26 00:00:38 | 潮来・茨城の歴史

合戦を前に

松本藩へは11月16日、高島藩へは11月17日夜、「常野の賊徒(水戸浪士)が信州へ入る」との報と共に、「見当たり次第撲滅せよ」との幕府からの追討令がありました。

17日、松本藩一番手 稲村久兵衛隊約400名はまず長久保宿へ出動しましたが、浪士軍が18日望月宿へ入ると聞いて、役人等からここが戦場にならないようにと懇願され、東餅屋まで引き揚げます(和田宿では天領を理由に宿泊を断られています)。19日軍議を開き、陣地を構築する事を決定、橋を壊して土塁とするなどします。

高島藩では藩主諏訪忠誠(すわ ただまさ)が幕府老中外国係で江戸にいるため不在、高島城中は大変な騒ぎとなりました。軍議が開かれましたが、平田派門人松沢義章(まつざわ よしあきら)らの勤皇思想もあり、また浪士達が甲州へ向かうとの情報もあった為守りの場所等でも紛糾。家中は二男三男まで、17歳から50歳まで総登城の早触れを出しました。

総人数が揃ったのは18日の昼過ぎ。家老千野兵庫(ちの ひょうご)も江戸屋敷から早馬で駆けつけ「討伐せよ」との藩主の意向を伝えました。そこへ物見の報告があり「浪士達は今晩長久保泊まり、明晩は和田宿泊まりで、峠へかかるのは20日になる様子」との事、全軍で和田峠を守る事になりました。

19日朝6時の太鼓を合図に、高島藩勢一番手先鋒隊が出発。この他、藩内から猟師をあつめました。和田峠・樋橋(とよはし)・下諏訪の住民には「近く当地で戦が始まるから退避するように」と触れてあったので、住民は恐れて退去。家財を畑に埋めて隠し、貴重品は持ち出すなどします。

午前10時頃、樋橋村に到着。山の神の森へ巨木を重ね塁壁を築き、陣地を構えました。

総大将千野孫九郎 軍師塩原彦七 

夜、高島藩は松本藩勢に使者 浜八郎兵衛・千野新左衛門を送りました。松本藩の軍議が開かれ、両軍は連合して戦う事になると、東餅屋の陣地は壊され、西餅屋ともに焼かれました。その他、大木を倒す、大岩を転がす、橋を落とすなどの妨害工作をしています。

20日夜明け、松本藩勢は樋橋に到着、午前8時には高島藩二番手も到着します。

和田峠は中山道での難所。標高1650m、冬季は積雪3mにも及ぶそうです。

高島藩・松本藩連合軍が陣地とした樋橋村の山の神の森は、この峠より6km下諏訪側へ下ったところ。

20日未明、浪士軍も和田宿を出発。総勢千余人、内騎馬武者200余騎、大砲15門。道々の大木・巨石等を片付け、仮橋をかけ等しながら進みました。

 

(「下諏訪町歴史民俗資料館」の展示より。ご許可を得て使用させて頂きました)

「和田嶺合戦」 

浪士軍は縦木(もみのき)で後続部隊を待ち合わせた上、

20日午後2時頃、三橋半六率いる虎勇隊を先頭にして香炉岩に迫る。

干草山(ひくそやま)に潜んでいた高島軍の猟師3名が発砲、浪士軍2名を倒すが、追い立てられ砥沢山(とぎさわやま)の谷深く逃げる。

午後3時頃、干草山の普寛山の影から赤の陣羽織・白鉢巻の武者が表れる。背後より15,6人、太鼓の音と共に20人程が連合軍を目指して鉄砲を打ち込む。下の位置にいた高島軍は応戦せず。

浪士軍が鉄砲を撃ちながら下って来たので、太鼓の合図で連合軍は二貫二百目の大砲を撃ち出す。硝煙で旗印も馬印も見えないほど。双方譲らずの大激戦。

陽も西に傾いた頃、猩々緋の陣羽織に白鉢巻、百匁筒を小脇に抱え、発射しながら干草山を下って来る大男、これこそ大将と思い連合軍は狙い撃ちにし、遂に討ち取る。この六尺近い大男は常陸の国 小松寺の修験者僧 不動院全海。 「今弁慶」と呼ばれた。

戦いは日没まで続き、浪士軍は三度まで押し返される。

浪士軍の軍師山国兵部は迂回作戦に出る。南斜面に大砲を持ち上げ、堪木場にいた武田魁介率いる奇兵隊100名程が北斜面に駆け上り大砲を両方面から撃ちかける。

さらに20名ほどが源太ヶ沢から樋橋村、山の神から後方に回り、連合軍の右側面から鬨の声をあげて百匁筒などを撃ちかける。

連合軍は山の中腹まで押し上がって決戦をいどむものの、挟み撃ちとなって動揺した。正面からは武田勢が鬨の声をあげて砥沢口へ押し出してエイエイと進んで来る。連合軍は浮き足立ち、高島藩勢から崩れて逃げにかかる。

武田勢はこの時とばかりに陣太鼓を鳴らし、采配を振るいわめき叫んで攻め立てたので、連合軍は混乱に陥り総退却となった。

松本藩勢は赤渋山の山伝いに松本に逃げたが、高島藩勢は民家三軒に火をかけ、その明りで中山道を逃げ下った。しかし、深沢(ふかっさわ)へ大迂回した浪士軍の30~40人と鉢合わせとなり退路を断たれ、激しい刀槍戦となった。最後まで踏み止まり奮戦した塩原彦七も深手を負った。

 

ー和田嶺合戦での犠牲者ー

○諏訪高島藩(6名)

士分 三輪佐兵衛  諏訪仲吉

徒士 林九兵衛 

足軽小頭 牛山源次郎

足軽 矢崎与市 今井佐右衛門

負傷者11名 生死不明者2名

○松本藩(下諏訪町慈雲寺墓地 5名) 

士分 近藤良五郎  吉江右衛門太郎

足軽 堀江曾根太夫 吉江伴之丞

    稲村元良

負傷者4名 生死不明者2名

 

参考書籍

○「増補 和田嶺合戦」下諏訪町立博物館編 甲陽書房

和田嶺合戦百年祭にあたり発行された御本。下諏訪町立博物館、和田嶺合戦百年祭実行委員会等、関係各位の皆様のご尽力に感謝致します。

○「実録水戸浪士の信濃路通行 憂国の情やみがたし」塩澤尚人編著 郷土出版

「なぜ浪士は決起したか」からその最期までを丁寧に追った力作です。

 

体験した事、伝わっている事もそれぞれの立場でのことなので、御本によっては違う記述もあるかと思います。

また、戦いの場所は「和田峠」では無いので、下諏訪ではこの戦いを「和田嶺(れい)」合戦」と呼ぶのだそうです。

「今弁慶」と呼ばれた不動院全海について、下諏訪町立博物館編「増補 和田嶺合戦」には「常陸国茨城郡上入野小松寺五十四代住職高橋宥仁の弟子で、行方郡延方村の修験者の子」とあります。私の知る限り、出自については常陸久慈の僧侶とされている事が多いのですが、稀に行方郡延方村の記述もあります。なので今までどちらがあっているのか解らずにいましたが、双方が書かれているのを初めて拝見しました。潮来市で建立された「敦賀勢、大発勢殉難者慰霊碑」延方村出身者の中には不動院全海のお名前はありません。

 

高島藩・松本藩連合軍にもたくさんの犠牲者(激戦を思うと少ない気もします・・)、また住民の方々も冬期に家や蔵を焼かれ、大変な思いをされました。

それでも尚、現在も「浪士塚」を守り、慰霊をし、記念祭をし、水戸と交流をして下さっています事に感謝申し上げます。有り難いことです。

今回は、松本藩勢の犠牲者が葬られた水月公園に向かう事が出来ず心残り。またお世話になりました「諏訪湖博物館」にも立ち寄る事が出来ませんでした。

和田嶺合戦の地。いつの日か、再び訪れたいと願っております。

 

 

 

 

 

 

 


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