和田宿から次の下諏訪宿までは、中山道最大の難関和田峠を含め五里八町(約22km)もの長帳場。あまりの難所の為、途中には永代人馬施行所(和田峠接待)、東餅屋、西餅屋、樋橋茶屋本陣等の、旅人の避難場所と言うべき茶屋等が配置されていました。
「永代人馬施行所(和田峠接待)」
解説によると「山抜け(山崩れ)により流出したが、嘉永五年(1852年)現在地に再建され、明治三年(1870年)まで続けられた」とのことですので、和宮降嫁、天狗党西上勢の通過の際にもこの場所にあり、それぞれを見送っていたのでしょう。
現在の建物は、昭和五十八年度歴史の道事業の一環として復元したもの。
旧道の険しさには現在でも驚きます。
「東餅屋」
戦前の写真葉書。和田嶺合戦の際に焼かれて以後、やはり避難所として復興がされ、自動車が普及した後は名所として残ったのでしょう。いつ建てられた物なのかは、調べてみましたが不明です。
1876年に紅葉橋新道が開削、1933年に和田峠トンネル(小さい写真 中央)、1978年新和田トンネル有料道路が開通しました。現在は新和田トンネル経由の新道を通るのが主だそうです。
旧道も国道ですが、新道と比べると慣れないせいか自動車で30分は違う感じでした。(往路は旧道、復路は新道を通りました)
(工事中の為、停車中の車両が写ってしまいます。ナンバーまでは見えませんのでお許し下さい)
松本藩勢は東餅屋から移動して諏訪高島藩勢と樋橋茶屋本陣で合流、連合軍は山の神の森へ戦いの本陣を置きました。また、猟師を配置。西上勢の到着を待ち構えていました。
この写真は諏訪湖方面から。まだ草が青々としていますが、もうしばらくすると張り出した香炉岩が見えるそうです。
道の左側下に降りる階段があります。そこには・・
「浪人塚」
和田嶺(峠)の戦いにて戦死した16,7名の水戸浪士が埋葬されています。
墓碑 横田巳之助 岡本久治朗
不動院全海 鈴木常之助
鈴木金蔵 大久保茂兵衛
水戸側に確認出来た6名のお名前だけが碑に刻まれています。
高島藩が後に塚を作ったのだそうです。
山の斜面、ここも駆け下った浪士達がいたのでしょうか。
「樋橋(とよはし)茶屋本陣」
現地でお会いした方によると、この地区で「浪人塚」の管理などもされているようです。
慰霊祭も毎年執り行われていて、「和田嶺合戦」150年の2013年には、水戸から梅の木を贈られ植樹をしたそうです。記帳箱の近くにありましたね。
諏訪からも水戸の回天神社に赴いて下さったとの事、下仁田でもそうでしたが、ご当地の方々が本当に大事にして下さっているのを痛感致します。本当にありがとうございます。
「下諏訪本陣」
「来迎寺」
和田嶺合戦の後、浪士達は戦場の後始末をし、無人となっていた下諏訪宿へ向かいました。本陣、来迎寺には幹部達、それ以外はそれぞれ旅籠等に入り、空腹と寒さをしのぎ、僅かな仮眠を取りました。しかし明け方近くには出発、後陣の三番手は到着したばかりで、湯水も取らずとなりました。
「下諏訪町歴史民俗資料館」(入口)
(ご許可を得て、写真の使用をさせて頂きました。感謝)
2階奥に「和田嶺合戦」の展示がありました。
皇女和宮降嫁の展示と同じお部屋です。畏まりつつも、まるでお守りしているような誇らしさ。
天狗党についても、詳しい内容で語られています。
「和田嶺合戦」では、高島藩・松本藩連合軍は敗戦となってしまいましたが、ご当地の皆様が、水戸浪士軍に心を寄せて下さっているのを感じます。
ぽんたさん、車の道の和田峠を越えたのですね。
旧中山道は、車の道の下の沢沿いにあり、和田側から登るのは急坂ではありません。しかし、標高差約800メートル。筑波山を下から登って越える様な標高差です。登り10キロ、下り10キロです。車の中山道よりも更に上に山頂があり、山頂からの眺めは絶景です。旧中山道中、最も高い場所。
冬の積雪期、人々は、よくこの峠を越えたかと、感心してしまいます。芹澤鴨さんは、積雪の和田峠を越えたんでしょうね。
沢沿いの旧中山道や、本当の峠にも行ってみたかったですね。
写真にある「永代人馬施行所(和田峠接待)」の看板を読むと、冬季でも旅人がいたという事ですよね。
浪士組は200名でしたっけ? 本当に「冬の積雪期」の上洛で、その当時は防寒とか履物とかどのような物があったのでしょうね?
考えただけでも「うわぁ・・」です。。
に、石が積まれた吹雪の待避所が残っていました。
写真、撮るのを忘れてしまいましたが。和田峠の下諏訪側は、急坂の悪路なので、歩くのが大変で、写真撮影する余裕がなかったです。
かくさんも余裕がないくらい、大変だったのですね!
ああ、私には永遠に行けない場所かもしれません・・。