あやめの里便り

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とある文章

2008-12-18 01:07:01 | 潮来・茨城の歴史

どなたかご存知の方!
ご教授願います!!

出典は 川瀬教文著「波山始末」「筑波山残徒進退始末」のどちらか。

この文章は抜書きなので、せめて前後の文章が判れば・・。

もしくは古文のお好きな方!
↓訳は間違っていないでしょうか・・。



初め松平大炊頭の東下する大発勢、塙又三郎・立花辰之介・岡見徳三・斉藤太吉・同弟好太郎・根本新介・砂押忠次郎等十人、留りて江戸に在り。
将に筑波山に赴き、倶に義を唱へんとす。田丸直允等既に筑波山を去ると聞き果たさず。
遂に那珂湊に到り、衆と力を(あわ?)せんとす。復た志を得ず。
乃ち湊を去り、横浜に赴き、夷館を屠らんとす。爰に於て同盟相携へ南行、鹿島に至る」

↓ ↓ ↓ ↓ ↓


「初めは松平頼徳公の率いる大発勢(にいた)塙又三郎・・等10人は、江戸に留まっていた。
(天狗党が挙兵したという)筑波山へ行って「義」を(ともに)唱えようとしたが、田丸稲之衛門をはじめとする天狗党は筑波山を去ったと聞き、願いを果たせなかった。
ついに那珂湊まで行き参加しようとしたが、また願いを果たせなかった。
そこで那珂湊を去り、横浜へ行き、異人を討とうということになった。(志が同じ仲間が出来)同盟を結び、ともに南へ向かい、鹿島に到着した。」




この文章の訳は(まちがってなければ)こんな感じ。
講師の先生もこんな感じで説明していたと思います・・が、私があまりに納得出来ずにいたので、聞き間違いしていたのかな??
質問もしてみたのですが、大発勢本隊の事を説明されるばかりで、結局よく判りませんでした。

とにかくHELPです!


判らないのは内容なんです。

「天狗党」は思想の同じメンバーの事でもありますから、一人でも「天狗党」ですよね。
だけど「大発勢」は単に「大勢」というだけの意味なので、水戸行きに加わらず江戸にいる10人を「大発勢」と言って良いのかな?

そもそも、なぜ水戸に行かなかったのか。
宍戸藩・水戸藩の武士の身分なら言語道断。
一般市民だとしても・・意味不明。

他藩浪士、志ある郷士だとして、わざわざ加わった大発勢を抜ける理由は何だったのか。
(攘夷をするつもりで加わった大発勢だが、目的が違う事に気付き脱退・・したとか?・・苦しいな)

「筑波に行こうとした」というけど、大発勢が江戸を出発したのは8月4日。
武田勢が加わったり、人足を集めたりしたのは後日です。

そして家族を救う為に水戸に向かった筑波勢は、既に「たまげ橋」の辺りで大負けをしていました。これが7月26日。
ついでに言うと、鹿島の大船津に「分派勢」が集まったのは9月6日。
追討軍がうじゃうじゃいる辺りを、江戸から(もしかして筑波へも。それから)那珂湊、那珂湊から鹿島。
一ヶ月もない中で、可能でしょうか?

筑波でも那珂湊でも参加出来なかったので、「横浜へ行って異人を討つ事にした」
・・っていうけど、大発勢は単なる鎮撫隊であって、攘夷激派じゃないよね???


さっぱり判りません・・・。


の部分さえなければ、割とすんなり読める文章なのですが。

 

お答えはこちら → 「とある文章 その2


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