「(石岡市)まちかど情報センター」
「天狗党事件と石岡地方」展示会
文章と地図、写真、刀傷のある柱等の展示がありました。
今まで天狗党の行動は、主に筑波山挙兵から取り上げられている事が多かったので、その直前の様子、また、本隊以外の行動の展示は初めて目にしました。
そこに、潮来勢と呼ばれる林隊が絡んでいて興味深かったです。
展示会を拝見したあと、天狗党に関わる場所を案内して頂きました。
「小川街道」
潮来街道とも。藤田小四郎、竹内百太郎等がこの道を闊歩していたことでしょう。
まちかど情報センターの写真の右側、一番近い路地です。
道すがらご案内頂きました。「看板建築」の建物です。
もしや「古道」?
ちょうど鉄塔が見える辺りが「国分寺跡」
(大きさは半分ほどですが)同じように五重の塔が立っていたそうです。
「小川街道」をもう少し進み、「新地八軒」と言われた場所へ向かいます。
「鈴ノ宮稲荷神社」
国府であった石岡には、様々な時代が重なる場所があります。
古にはこの場所に駅屋があったそうです。「まちかど情報センター」で購入した「天狗党志士と大楠公玄武鈴・・」によると、「『国印・鑰(鍵)・駅鈴』の三種は、国衙の最高の官具」との事で、武家時代になっても貴重な「鈴」に霊力を感じ、奉納祭祀を続けたのだそうです。
幕末。天狗党の面々(72名・田丸稲之衛門)が、筑波山挙兵に向かう当日に祈願をしたのもこの神社。
大事な鈴にはもうひとつ、楠正成公縁(ゆかり)の「玄武鈴」という物があるそうです。大楠公と言えば「七生報国」の忠臣。「尊王攘夷」の天狗党は、「鈴ノ宮」の名に楠公を感じて拝したのかもしれません。
彼等も見つめた御神木。
藤田小四郎等がお世話になった妓楼「紀州屋(紀ノ国屋)」は、「鈴ノ宮稲荷神社」の二軒隣(隣りの隣り)にありました。
現在の写真館と、その隣りの空き地を合わせた大きさの間口の、新地八軒の中でも一番大きな妓楼だったそうです。
少し先には左に行く道があり、「水戸街道」に続いています。
何れかの道を幾人かずつ、それぞれ目立たぬように筑波山を目指し歩いて行ったのだろうと、案内をして下さった方が仰っていました。
「小川街道」を戻り、「中町通り」を渡ります。
すみません、午後の強い日差しで写りの良い写真が少なく、あまりup出来ません
「浄土真宗 本浄寺」
このお寺に、妓楼「紀州屋」の女将「いく子」と 養女「大久保たか子」が眠っています。
祭神は迦具土命(火の神)。元々は幸町の古墳の上にあり、そこから移されたものと伝えられています。
天狗党の薄井督太郎龍之が境内で私塾を開いていたそうです。
「照光寺」
本堂建替えの際、古いお堂は大洗の願入寺に移築されましたが、天狗党の宿舎になった時に血気盛んな若者に切り付けられた柱があり、それは石岡に残されました。今回の展示会場でも見る事が出来ます。
このお寺の一番奥まった場所に、府中松平家の墓地があります。入口に建てられた鳥居が、いかにも尊王主義の水戸藩の御連枝(分家)らしい。
「東耀寺」
このお堂の入口に、「小林豊次郎」のお墓があります。
府中藩士として戦い、天狗党の鉄砲に倒れました。どうしたわけかお墓が削られているのは、賭け事のご利益を当てにした輩の仕業だそうです。
そして、お堂の裏手には「鈴木三樹三郎」のお墓があります。
新選組を抜けて御陵衛士になり、後に油小路で暗殺された「伊東甲子太郎」の実弟です。兄と行動を共にしましたが幕末明治を生き延び、この地で亡くなりました。
市民会館の入口には「陣屋門」
震災の時に立て替えられています。
市民会館は「府中城址」の敷地の中にあり、向かう途中には緩やかな「V」の字の坂道があります。一番低くなっている場所(道)が外堀にあたるのだそうです。
「ふるさと歴史館」
石岡小学校の門から入ります。市内遺跡から出土した考古資料等を展示。「まちかど情報センター」の今回の展示会へは、ここから貸し出されている物もあります。
建物手前の辺り、あまり目立ちませんが何点かの碑が建てられています。盛り上がった所は府中城の土塁。その脇が低くなっているのは堀の跡だそうです。
また、建物の後ろの辺りには「常陸國国衙跡」があります。
以上、見所がたくさんあって、気が付くと2時間が経っていました
本当はまだまだ見足りない・・。またお邪魔致します!
そして肝心の天狗党関係は、購入した資料をきちんと読み込み、時系列や人物を整理したいです。焼き討ちや事件・戦いがありながら、こうして話が伝わっているのは、藤田小四郎等の人柄に直接触れた関係があったからなのだと思います。本当に貴重です。
最後になりましたが、丁寧にご対応頂きありがとうございました! 感謝
※「鈴ノ宮稲荷神社」
筑波山へ旗揚げする日に府中新地稲荷の境内に集った天狗党の面々(72名)としていましたが、(72名・田丸稲之衛門)としました。
72名のメンバーが、田丸稲之衛門の到着を待ち、稲之衛門は午後1時頃、駕籠に乗って従者を連れて到着したそうです。その後、鈴ノ宮稲荷神社の境内に勢揃いをなして筑波山へ出発しました。
その時に大将であった田丸稲之衛門が皆を従え、祈願の時を持ったのは想像出来る所でありますし、楠正成公が72名の一族・家人等と共に湊川で自害した事を思うと、「73」というのは意味のある数だった事でしょう。
「72」というのは、今となってはオボロゲなのですが、紀州屋さんがお昼を用意した数だったようにも記憶しています。(H29,6月)
○参考資料
常陸郷土資料館誌「常陸」第十号
「故山口誠太郎博士遺稿 元治甲子府中杉並戦争物語 筑波義軍旗挙の前後」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます