先週になります。
雨降りの金曜日、水戸に出掛けて来ました。
「二十三夜尊桂岸寺(大悲山保和院桂岸寺)」
本尊は勢至菩薩。行基の作と伝えられ、佐竹貞義の護持仏。
天和2年(1682年)檀海和尚の開山で、元は水戸市全隈町にあった普門寺を中山備前守信治が小松寺住職宥密(ゆうみつ)を説いて水戸藩附家老中山信正の供養のため譲り受け現在の地に建立しました。
中山家は後北条家家臣の家柄。初代中山信吉(のぶよし)は、小田原征伐後の徳川家康に召し抱えられ、家康十一男・頼房が常陸国下妻(のちに水戸)に配された時に附家老となります。信正は2代目で、常陸松岡に居館を築きました。信治は信正の実弟で養嗣子となり3代目。6代~9代までは常陸太田に知行替えとなります。10代信敬(のぶたか)は第6代水戸藩主徳川治保の弟。附家老として藩主の兄を補佐、藩政を掌握し中山家の地位を向上させることに尽力、再び常陸松岡に知行替えとします。次に松岡館の再建と城下町の整備に努め、独立した政治を行い、幕府に対しても附家老である中山家の家格向上を働きかけ、他の附家老も連帯して譜代大名並みの待遇を求めて行きました。知行地・常陸松岡は水戸藩領内でありましたが、明治維新後に「常陸松岡藩」として正式に認められ、廃藩置県まで続きました。
※初代信吉については、「高萩市教育委員会」(郷土の先人→中山信吉)に詳しい紹介があります。
水戸市にある保和苑は、徳川光圀公(水戸黄門)が寺の庭を愛されて「保和園」と名付けられたことが始まりと言われています。
昭和初期には地元有志により、拡張整備されて純日本庭園になり、名前も「保和苑」となりました。(「観光いばらき」より)
※光圀公が水戸藩第2代藩主となったのも、附家老 中山信吉から将軍家光への推挙があったからとされています。
雨の日の紫陽花。ちょうど見頃だったようです
「煙の木(スモークツリー)」
白熊(はぐま)の木、霞の木とも言うそうです。ウルシ科ハグマノキ属。雌雄異株の落葉樹。3㎜ほどの花が咲いた後がフワフワの綿のように見えます(雌株のみ)
水音が良いですね。
あまり奥までは行きませんでしたが、高低差を利用した公園のようです。
池の周りをぐるりとしただけでもたっぷりと咲いていて、見ごたえがありました。
お隣には「回天神社」「鰊蔵」「常盤共有墓地」
「保和苑」にお越しの際には、どうぞ、こちらにもお立ち寄り下さい。
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