あやめの里便り

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幕末水戸藩と天狗党 その2

2013-03-27 01:14:45 | 潮来・茨城の歴史

< 水戸藩に関わる幕末の事件 > 

幕末はいろいろ有り過ぎなので、年表リンクしておきます(天狗党・新撰組・芹沢鴨版ですが) → 「戊辰前夜」  

「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」 ・・幕府が朝廷の許可が無いまま日米修好通商条約を調印した事を受け、孝明天皇から水戸藩へ下賜(かし)された密勅。幕府にではなく、尊王攘夷の総本山とも言うべき水戸藩へ直接下賜された事が幕府の怒りを買い、返納をするようにと言い渡されます。

「安政の大獄(あんせいのたいごく)」 ・・大老・井伊直弼が取った弾圧政策。朝廷の許可無く調印をした事を不敬として不時登城をし抗議した水戸藩主斉昭公等は永蟄居(えいちっきょ)等、また吉田松陰等多くの処刑者を出しました。

「長岡屯集(ながおかとんしゅう)」 ・・「戊午の密勅」返納を阻止しようと、長岡宿に攘夷派が集結。その後水戸藩からの捕縛を避け解散、そのまま「桜田門外の変」へと計画を移しました。

「桜田門外の変」 ・・水戸脱藩士・薩摩藩士による大老・井伊直弼の暗殺。彦根藩から水戸藩への恨みは凄まじく、天狗党への処罰では353名のほとんどを彦根藩が処刑しました。 

「天狗党の乱」 ・・藤田小四郎等が中心となり、まず筑波山にて挙兵。しかし、藩内で敵対する諸生党や、諸生党側についた幕府方が討伐隊となります。方や天狗党側につく形となった大発勢とともに那珂湊にて戦闘となり、大子へ。

その後は一橋慶喜公を頼り、日本を横断し京を目指します。これを「西上」と言い、京に向かった天狗党は「西上勢」と呼ばれます。

しかし、頼みの慶喜公は討伐側となり、望みを絶たれた西上勢は敦賀にて降伏。353名もが処刑となりました。

 挙兵前の出来事 ・・将軍家茂が朝廷の求めに応じて上洛、攘夷実行を約束するも遅々として進みませんでした。将軍上洛時、水戸藩主慶篤公も上洛、付き従ったのが改革派である武田耕雲斎・藤田小四郎等。京では長州の桂小五郎、久坂玄瑞等と密談を交わしました。またそのまま京に残った水戸藩士は「本圀寺党(ほんこくじとう)」と呼ばれました。

 本隊の経路 ・・筑波山挙兵→日光東照宮参拝→「下妻の戦い」→水戸へ(「銷魂橋の戦い・たまげばしのたたかい」)→「那珂湊の戦い」→大子(だいご)へ→西上(京を目指して日本を横断。「下仁田の戦い」「和田(峰)峠の戦い」等)→敦賀にて降伏→鰊蔵(にしんぐら)に幽閉→処刑  

 思想 ・・弘道館や郷校で水戸学を学んだ彼等は「尊王敬幕(そんのうけいばく)」の思いを持っていました。

 尊王攘夷の思想はあっても決して倒幕の意識は無く、従って挙兵はしても幕府を敬う立場である事を、日光東照宮参拝の形で表そうとしました。

 目的 ・・横浜港の閉鎖を幕府に要求し、攘夷を決行する。

※詳しくは・・「潮来・茨城の歴史」カテゴリーへ。

 

< 敦賀以後 >

水戸では天狗党の家族が捕らえられ、敦賀での処刑とともに、諸生党により家族も処刑されました。

敦賀で若年だったため処刑を免れた武田 金次郎(たけだ きんじろう)等若者達は、成長して明治天皇から諸生党討伐の勅諚(ちょくじょう)を頂き、本圀寺党とともに東京・水戸の諸生党やその家族に復讐を果たして行きます。これが「さいみ党」と呼ばれる一派。

本圀寺党に政権を奪われ、命をも狙われる事となった諸生党は水戸を脱出。戊辰戦争を迎えようとする会津→新潟方面→会津へと進みます。新潟方面では桑名藩と共に新政府側に応戦、会津では鶴ヶ城にて戦闘状態となります。

しかし会津が降伏すると水戸へ。弘道館へ立て篭もり戦い(「弘道館戦争」)となるも脱出。

最終的には下総八日市場近くの松山村にて全滅となります(「松山戦争」)・・たった一人、総大将である市川三左衛門を除いて。

市川は娘の嫁ぎ先である東京・宝徳寺近辺に潜伏していた所を天狗党により発見されました。

その後、水戸にて逆さ磔(さかさはりつけ)の刑に処せられます。簡単に死なないように、息を吹き返させながらだったと言います。

天狗党の挙兵以来、水戸では血で血を洗うような報復合戦となり、人命が奪われ人材も枯渇する事となりました。

「成破の盟約」を誓った長州とは、その命運も立場もかけ離れたものとなってしまいました。

「成破の盟約(せいはのめいやく)」 ・・「桜田門外の変」から約半年後、長州・桂小五郎等と水戸・改革派との間で取り交わした盟約。「(成)長州が新しい世を作り、(破)水戸が古い世を壊す」との密約です。この段階では倒幕の話ではありませんでした。

 

※※「天狗党」を調べようとすると出て来る人物や事柄を、ざっくり書いてみました。チェックはしてみたものの私なりの解釈なので、間違い等ご講義頂ければ幸いです。

※※資料等によって、天狗党処刑の人数が352名のものと、353名のものがあります。敦賀市教育委員会発行の「松原神社祭神事暦」によりますと『合計三百五十三名が刑死』とありますので、今後は353名で記述致します。以前upしたものも、解り次第訂正致します。(H25,7,5 記)

※※「天狗党の乱」について。不親切で失礼しました。色々有り過ぎる内容なのですが、ざっくりまとめてみました。本当は詳しく見て頂きたいので、是非「潮来・茨城の歴史」カテゴリーをご覧下さい。また、水戸を脱出した諸生党が会津藩領地に到着したのは会津戦争直前なので、表現を変え加筆しました。(H26,5,27記) 

※※魂消橋→銷魂橋 に訂正しました。(H29,12,25記)

また、この場を借りまして

かなり以前から「後ほど」としていた天狗党分派勢、諸生党に関してですが・・、救いの見えない戦いを書き付ける事が辛く、まとめの文章に出来ずにいます。お約束を守る事が出来ず、申し訳ないです。。興味をお持ちの方は、「天狗党関係書籍」に詳しい書籍がございます。こちらを是非お読み頂ければと願っております。

「あやめの里便り」 ぽんた拝


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