7月初め、「潮来市歴史文化推進協議会合同研修会」がありました。タイミングが合わずにおりましたが、ちょうど「天狗党に縁の地(水戸)」をご紹介していたので、合わせてup致します。
スケジュール:
「潮来郷校跡・天狗党の乱記念碑」参拝→「南部奉行代官跡紅葉」→「勘十郎堀跡」→涸沼→(車中より長岡原の刑場跡)→(車中より老田原の刑場跡)→(車中より備前堀・銷魂橋)→「保和苑回天神社」奉納→「弘道館」観光アドバイザー水戸→「那珂湊反射炉」→(華蔵院)「夤賓閣」
「潮来郷校跡・天狗党の乱記念碑」参拝
元治甲子の乱に潮来勢として参加した方々は、那珂湊や下仁田の戦い、和田嶺合戦、過酷な道中、敦賀での処刑等で命を落としました。松平頼徳公に従った大発勢も那珂湊で戦いとなり、諸生党側の策略にあい捕縛されてしまいました。潮来も天狗党鎮撫の為の戦火の被害にあい、諸生党・天狗党で親戚同士が袂を別っていた事もあって、地元では憚れる話題となってしまっておりました。
しかし、国難の時代に犠牲を払った方々がこのまま忘れ去られてはいけないと、殉難に合われた潮来の方々を記念して記念碑・殉難碑が平成27年に建てられました。
今回はこちらの参拝の後、元治甲子の戦いの舞台にもなった縁の場所を巡りつつ、回天神社への奉納に出向きます。
「南部奉行代官跡紅葉」
小宮山楓軒(1764~1840)
学者,民政家,水戸藩士。立原翠軒に学び,天明3年(1783)彰考館に入り,「大日本史」の編さんに16年間携わりました。その後,南(紅葉組)郡奉行に抜擢され,21年間民政にあたりました。その善政は領民を荒廃から立ち直らせ,深い感銘を与えました。(茨城県立歴史館HPより)
「勘十郎堀跡」
江戸時代、東北諸藩から江戸に物資(主に米)を輸送しようとすると、主に二つの水運ルートがありました。
まずは潮来まで
①奥州方面から太平洋を南下~那珂湊~涸沼~海老沢河岸(荷揚げ)
=馬で陸送=紅葉(鉾田市)で小船へ~巴川(閘門)
~塔ヶ崎・串挽河岸(鉾田市)で高瀬舟 ~北浦~潮来
②奥州方面から太平洋を南下~鹿島灘~銚子~利根川~潮来で川舟へ
潮来からは
常陸利根川~横利根川~佐原~関宿~江戸川
※他に、海老沢河岸(荷揚げ)=馬で陸送=下吉影(小美玉市)~霞ヶ浦 のコースもあり。
※元禄時代を過ぎると、船は銚子から利根川を上り、直接佐原に入るようになりました。
「勘十郎堀」は、涸沼の海老沢河岸から巴川の紅葉(旧鉾田町)に至る約8キロメートルに船を通行させる堀を造り、安全な航路の確保と、通行料を取り立てて藩財政の立て直しをはかろうとする為のものでした。しかし、この工事は農民達を苦しめ、宝永一揆を引き起こす事となります。計画は頓挫し、現在は未完成の堀跡のみが残ります。
車中より「備前堀」
水戸藩初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のため、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かれた用水堀で、伊奈「備前」守忠次の名から「備前堀」といいます。当時は千波湖から直接水を流していましたが、大正から昭和にかけての千波湖改修により、桜川から取水するようになりました。(水戸観光コンペション協会HPより)
「奉納」
自分もまた縁の地の人間である事を、改めて実感致しました。同胞が血を流し合った事が一番辛い。ご冥福をお祈り致しました。
「回天神社」
安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、元治甲子(げんじかっし)の変など、国のために殉じた1,785名の士民の霊を慰めるとともに後世に伝えるため、昭和8年忠魂塔が建てられました。さらに昭和44年には明治維新百年を記念し、この志士たちを祭神として回天神社が造営されました。まさに維新回天の事業の貴い礎(いしずえ)となった志士の御霊を祀った聖域といえます。神社の前後に、一定の形の墓石374基があたかも行進しているように整然と並んでいますが、これは天狗党の烈士の墓で大正3年に建てられたものです。(埋葬は明治3年)
境内の回天館は、天狗党の志士が降伏後に押し込められた鰊倉(にしんぐら)の1棟で、敦賀市より譲り受け、天狗党の資料などを展示しています。(水戸商工会議所HPより)
「弘道館」観光アドバイザー水戸
水戸藩の藩校として、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により天保12年(1841年)8月に創設されました。藩士に文武両道の修練を積ませようと、武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものでした。当時の藩校としては国内最大規模のもので、全国各地の藩校建築に影響を与えました。
第15代将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。
弘道館は国の特別史跡になっており、幾度の戦火を免れた正庁・至善堂・正門の3か所は重要文化財に指定されています。敷地には約60種800本の梅が植えられており、偕楽園とともに梅の名所となっています。
平成27年4月には、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定されました。(水戸観光コンベンション協会HPより)
「那珂湊反射炉」
山上門は、もと水戸藩小石川邸の正門右側にあり、勅使奉迎の為に特に設けられたものです。幕末には、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、江川太郎左衛門、橋本左内などの天下に名だたる人々が、この門を出入りしたと言われています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門と言われるようになりました。
那珂湊反射炉は、水戸藩が那珂湊に建設した大砲鋳造所です。元治元年(1864年)まで、操業し20数門が製作されたと言われています。元治元年に元治甲子の争乱で破壊されてしまいましたが、昭和12年(1937年)に現在の模型が復元されました。(うぃーくえんど茨城HPより)
「夤賓閣」
元禄11年(1698)に徳川光圀が那珂川河口を望む日和山と称する高台(現在の湊公園)に建てた水戸藩の別邸で「湊御殿」とも称された。幕末の甲子の乱(1864)で焼失するまで166年間にわたり歴代藩主がしばしば訪れ、酒宴や詩歌の会が催される一方、幕末には海防の拠点としての役割を担っていた。(市報ひたちなかより)
新しい時代を迎える為に散って行った方々は、この地を、この時代を、どう思い見ている事でしょうか。私達はどう伝えて行けばよいのでしょうか。・・思いを馳せていると、「昔むかし」のお話になるのが一番良いようにも思えて来ます。
「夤賓閣」の説明を探していて「『夤賓閣(いひんかく)』の復元を目指す夤賓閣復元研究会(高田憲一郎会長)は、30分の1の大きさの模型を完成させた。」という記事を見つけました。震災で取り壊しとなった「ふるさと懐古館」の柱は、模型2階屋根部分に使われたのだそうです。嬉しい事です。機会がありましたら見てみたいですね。また、短くて解りやすい解説をと、各HPから解説文をお借り致しました。感謝。
今回の合同研修会は、縁の地「潮来」から、縁の地「水戸」「ひたちなか」を巡り、歴史に詳しい皆様と縁の地ならではのお話も出来、本当に有意義でした。回天神社に奉納したのも初めての経験でした。
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