潮来市の「歴史散策講座」に参加して来ました。
「回天神社」に建つ「ニシン蔵」
敦賀にあった16棟のニシン蔵に、天狗党西上勢823名は劣悪な環境で閉じ込められました。
昭和になってから港湾事業があり、このニシン蔵にも掛かってしまうという事で、その内一棟が水戸に運ばれ常盤神社に。
平成元年、老朽化し、取り壊しの危機にあったものを水戸市民有志・水戸市当局の補助により「回天神社」へ。
改築はされましたが、柱・梁は当時のままのものです。
コートを着込んだ今でさえ、足元から寒かった。
当時は着る物も充分では無かったでしょう。
冷たい土間にむしろ。
その上、足かせをされていたと言います。
ニシン蔵とは肥料蔵の事ですが、その真ん中には大きな桶。
これに二枚の板が渡してあり、これがトイレ代わりです。
窓を全て塞いだ暗闇。
食事は握り飯が一つとぬるま湯が日に2度。
このニシン蔵で亡くなった方も・・。
そして・・「回天神社」に祀られている方々のお名前がここに。
案内して下さった方は、「回天」の意味を「廃れた世の中を正しい世に引き戻す」と説明して下さいました。
そして「褒賞を得る為に戦ったのではない」と。
「安政の大獄」から「元治甲子の変」までに殉難した勤王烈士の方々1785名。
今は静かにご冥福を祈るばかりです。
*ご注意*写真公開については、解説して下さった方の了解を頂いています。
「助川海防城跡」から海を臨む。
今は「助川海防城公園」になっています。
(判り辛いですが)左手にある小学校の校庭の角の辺りが表門。
とても大きな敷地です。「城」とありますが、「館」の造りだったそうです。
「本丸」に辿り着くには少し歩きます。
焼けた瓦が残る。
水戸藩で5番目に出来た郷校「暇修館」
復元され、実際に利用されているようです。
近くには「大窪城跡」
「虎塚古墳」
春・秋に内部公開があります。
それ以外では、「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」で復元した物が見られます。
壁画は、凝恢岩の白に、「丸」や「三角」等の抽象的な文様や、具体的な道具がベンガラ(朱色)で描かれています。
葬儀というものは、今も昔もその土地(もしくは一族)の仕来りに則って行うものなので、葬られた一族のルーツも判るのではないか・・とは案内して下さった方のお話です。
似たものとして挙げられたのは、熊本の「チブサン古墳」「弁慶ヶ穴古墳」。
さあ、繋がりは本当にあるのでしょうか・・?
(私としては、遠く九州から『東夷征伐』にやって来た「建借間尊(たてかしまのみこと)」を思い出しますが・・)
そして「反射炉跡」に復元されたもの。
斉昭公は、知識・技術に長け、実行力に富んだ方でした。
「徳川斉昭展」では、斉昭公直筆の「反射炉」の図面が展示されていました。
一日で回るには、ちょっと大変でしたが・・現地の観光ボランティアの方々が解説して下さり、有意義な一日を過ごすことが出来ました。
企画して下さった方々にも感謝です。
鹿児島から茨城に来て、意外と共通するものが多いと感じてます。
なので、熊本あたりと似ているとか・・・うなづけたりします。
鹿児島の辺りと、茨城には共通するものが多い・・。
ちょっと感動します。
繋がりとか、本当にあるのかもしれませんね。
薩摩藩の斉彬公と水戸藩の斉昭公も、とても気が合ったようです。
「徳川斉昭展」では、海中から引き上げられたという「日章旗」が展示されていました。
日本初、公式に(船で国籍を表す為)使われた物で、このお二人が考案されたのだそうですよ。
それはそうと、私はまだ神戸より先に行った事がないんです!
行きたいなぁ・・九州・・。
鉄を溶かし鋳物として大砲を作っていたなんて当時としては驚きです。
まだ行ったことがないので今度見てみたいです。近くの国道245号はよく通るので寄り道してみます。
すごいでしょう?斉昭公!
たぶん「反射炉」にいたのは「天狗派」で、それを市川勢が攻めています。
「反射炉」まで出掛けたら、「山上門」にも注目して下さい。
水戸小石川藩邸で唯一残っている門だそうですよ。
他にも那珂湊には、史跡がたくさんあります!