Study of Conservative in Japan

保守思想の探究

聖フェーメ団

2022年01月02日 | 雑話
 1180年、フリードリヒ赤髭王(神聖ローマ帝国皇帝・1155年戴冠)は、臣下のハインリヒ獅子公を不服従の廉で追放し、ハインリヒ獅子公の所領を没収した。しかしその後、フリードリヒ赤髭王は、ハインリヒ獅子公から没収したライン川とヴェーザー川に挟まれたヴェストファーレン地方一帯の所領の覇権掌握に失敗し、その一帯は、次第に盗賊や悪党が跳梁跋扈する紊乱状態におちいり、無政府状態とも呼べるほどまでに、寥落した。
 この紊乱を鎮定するために設立されたのが〈聖フェーメ団〉と呼ばれる秘密結社であった。この秘密結社は、最盛期には、十万人以上の成員(知識人)を集め、カール四世(神聖ローマ帝国皇帝・1346年戴冠)がその私刑(リンチ)を公認するほどの勢力を誇った。

 この聖フェーメ団は、判決の執行役の「従僕(フローンボーテン)」、秘密裁判官の「陪審判事(フライシェッフェン)」、裁判長の「裁判官(シュトゥールヘレン)」の三つの階級を有する組織を形成していた。聖フェーメ団の集会は、多くの場合、野外でおこなわれ、一般公開されることもあったが、聖フェーメ団の裁判は、基本的には、宣誓した者のみの非公開法廷であった。
 聖フェーメ団が定めた私刑は、現代の法制度でみられるような量刑はなく、死刑のみであった。裁判長が判決をくだすと、近くの樹木を利用して、絞首刑がただちに執行された。例外は、聖フェーメ団が被告人に三度召喚通知をおこなっても被告人が一度も応じなかった場合で、そのような場合には、欠席裁判がおこなわれ、欠席の被告人は有罪とされたのち、国外追放になった。一聴すると、欠席裁判のほうが死刑にならないため、最善の選択のように思えるが、聖フェーメ団の法では、聖フェーメ団の成員は、成員三名で有罪(国外追放)となった被告人を逮捕すことに成功すれば、被告人をその場で、絞首刑にすることができる資格を保有していた。つまり、国外追放になった被告人は、聖フェーメ団の成員に見つかると、ただちに処刑された。
 このカール四世が公認した聖フェーメ団は、後年のマキシミリアン一世(神聖ローマ皇帝・1508年戴冠)とカール五世(神聖ローマ皇帝・1519年戴冠)の時代には、その公認が取り消され、公然には、私刑はおこなわれなくなった。しかし、聖フェーメ団は、1811年のフランス帝国によるドイツ侵攻までの約300年にわたり、ヴェストファーレン地方において、その勢力を隠然と維持していた、といわれている。

 聖フェーメ団の成文法は、成員だけの秘密であっただけではなく、その法を部外者に口外することが禁じられていた。そして、その立法は成員によるものに限られていた。言い換えれば、聖フェーメ団は、秩序維持の名の下に、自らが制定した法で、私刑を執行していたのである。

 Twitter、Facebook、Google、Apple、Amazon などの〈ビッグ・テック〉は、2020年の米国大統領選挙において、トランプ前大統領の投稿を検閲し、ビック・テックの権能を旗幟鮮明とした。たとえば、Twitter社は、トランプ前大統領が投稿したツイートを検閲し、非表示にするのみならず、2021年1月8日には、トランプ前大統領やトランプ政権関係者などのアカウントを恒久的停止にするまでに至った。Google、Apple、 Amazon は、Parler などの新興SNSのアプリを「利用者が投稿する内容に懸念がある」として、一時的に新規利用者のアプリ利用を制限した。このような事態を目睹した人びとは、このビッグ・テックによる検閲に警鐘を打ち鳴らした。
 歴史を振り返れば、現下のビッグ・テックによる検閲のはじまりは、通信品位法(CDA)の “Section 230(c)(2) CIVIL LIABILITY” によって、インタラクティブ・コンピュータ事業者に免責とコンテンツ規制の権能を与えたことであった。

 米国では、新聞社などのパブリッシャーは、記事の筆者の所属を問わずして、新聞などの掲載記事に対する掲載責任が問われる。一方で、インタラクティブ・コンピュータ事業者には、“Section 230(c)(2) CIVIL LIABILITY” という〈効用としての正義〉(功利主義)にもとづいて、免責と「猥褻(lewd)」「扇情的(lascivious)」「不潔(filthy)」「過度の暴力(excessively violent)」「嫌がらせ(harassing)」「その他、不快にさせるもの(otherwise objectionable)」などのコンテンツを検閲する権能が認められていた。そのため、トランプ前大統領は、“Section 230” が「国家の安全保障上の懸念になっている」として、 “Section 230” の廃止を主張していた。つまり、〈効用としての正義〉が「国家の安全保障上の懸念になっている」という主張をおこなった。
 しかし、このトランプ前大統領の “Section 230” 廃止論は、実際に、“Section 230” が「どれほど国家の安全保障上の懸念材料になっているか?」という観測の問題を抱えている。一方で、新聞社などのパブリッシャーが記事掲載責任を問われている現状を鑑み、〈公平としての正義〉(ロールズの正義論)という観点に立てば、“Section 230” がどれほど国家の安全保障上の懸念材料になっているのかを観測するまでもなく、一理ある主張であった。これがトランプ前大統領とビッグ・テックとの対立点であったことは、間違いないであろう。

 トランプ前大統領の主張のとおりに、“Section 230” を廃止すれば、利用者によって猥褻なコンテンツなどが投稿されるたびに、インタラクティブ・コンピュータ事業者が法的責任を問われることに、強い懸念が示されるのであろう。インターネットは、新聞社などのパブリッシャーが発行する紙媒体とは異なり、「開かれた表現の場」である。それは、人びとが自由におしゃべりする公園と逕庭はない。そのような「場」において、公園の管理者が人びとの口に戸を立てるようなことは、可能なのだろうか? しかし、現下の議論は、1996年にクリントン政権下で、通信品位法(CDA)が制定されたときと同じ状況下にあるわけではない。〈効用としての正義〉にもとづいて制定された法がどのような効用をもたらし、どのような懸念をもたらしたのかを検討するだけの具体的な材料は、現在では、出揃っているのではないだろうか?

 〈効用としての正義〉か〈公平としての正義〉か、という二項対立もさることながら、現下のインタラクティブ・コンピュータ事業者に与えられている免責や権能が〈最大多数の最大幸福〉という功利主義の観点に適っているかどうかを検証すべき時期にきているのではないだろうか? つまり、私企業によるSNS等の運営を認めるとしても、利用者から発信の機会を奪うことが「人びとの幸せなのか?」という素朴な問いに、私たちが向き合わなければならない時機であるのではないだろうか?

 最後に、かつての聖フェーメ団は、人びとから尊敬を集める一方で、スペイン異端審問と同様に、恐怖支配によって、ヴェストファーレン地方に暗い影を落としていた。そのような陋習から解放をもたらしたのが「自由を愛した」ナポレオンであったことを記し、今回は擱筆することとする。(了)


〔参考文献〕
セルジュ・ユタン著,小関藤一郎・訳『秘密結社』白水社,1972年,pp.123–124
ウィキペディア日本語版「ハインリヒ3世(ザクセン公) - Wikipedia」,(https://ja.wikipedia.org/wiki/ハインリヒ3世_(ザクセン公) 閲覧日:2020年11月14日)

※この文章は、2021年の1月に投稿しようと思っていたのですが、諸般の事情により、機を逸してしまいました。そのため、時流におくれをとった内容ではありますが、ご笑覧いただければ幸いです。一部の人びとの間では、「暴君」のイメージで語られることが多いトランプ前大統領ですが、彼の廃止論の主張を支える理念(principle)は、意外にも「左派のバイブル」と呼ばれるロールズの正義論なのではないか? というのが論点のひとつです。

科学の射程について

2021年05月08日 | 雑話
 「科学の射程」を知るために、はじめに、〈自由意志〉という言葉を限局しなければならない。
 ここで用いられる〈自由意志〉の「自由」は、J.S.ミルが『自由論』で論じた「自由」ではなく、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で、〈eph' hemin〉と述べた「行為は自分次第である」という意味の「自由」である。

 〈自由意志〉は、さまざまな信念、欲求、義務などを行為の理由にして、決心し、行為を開始し、行為を完了させる、というのは「自分次第である」という常識である。そして、この〈自由意志〉は、古代から道徳的責任の源泉とみなされてきた。しかし、プロイセン王国の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンが1880年におこなった『宇宙の七つの謎』と題した講演において、将来においても解決不可能であると主張したものの一つが〈自由意志〉であったように、〈自由意志〉は、古代から続く難問のひとつでもある。たとえば、ストア派やラ・メトリーの人間機械論を支持する哲学者たちが主張するように、世界が因果的に決定されているならば、〈自由意志〉は、存在しない。このような考え方は、〈決定論〉と呼ばれている。
 反対に、私たちの行為が決定されておらず、全て偶然の成り行きとなると、私たちがどのように行為をするのかも偶然である。そうなると、私たちは、偶然の成り行きを「自分次第」と呼び、その結果を「自分の成果だ」と主張するという、おかしな状態になる。つまり、偶然だけでなり立つ世界でも〈自由意志〉が存在しえない。私たちが常識としている「〈自由意志〉は、本当に、存在するのだろうか?」というのが〈自由意志〉の問題の撮要である。
 この〈自由意志〉の問題に、一つの見解を示しているのが米国の哲学者ジョン・R・サールである。

 サールは、著書『社会的世界の制作 人間文明の構造』で、〈自由意志〉の問題は、未決としながらも私たちが「自由の経験」をとおして抱いている〈自由意志〉を次のように措定している。
 サールによれば、意図的行為の場合、「行為の理由と決心」、「決心と行為の開始」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があり、それぞれの逕庭を紐帯する必然的な要素は存在しない、とする。たとえば、YouTube の動画に刺激を受けて、「夏休みに、自転車で、本州一周の旅をしよう」と決心しても、当の夏休みに、実際に自転車で本州一周の旅ができたかどうかは、「わからない」。同じく、当の夏休みに自転車で、本州一周の旅を始めたからといって、本州一周を達成できたかどうかも「わからない」のである。その「わからない」理由は、サールが措定したように、意図的行為の「行為の理由と決心」「決心と行為の開始」「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係に、逕庭があるからに他ならない。
 このように、サールが示した〈自由意志〉の概念装置は、私たちの経験に即したもので、直感的に当を得ている、といえるだろう。そこで、このサールの〈自由意志〉の概念装置を規矩として、「科学の射程」を確認したい。

 一般に、自然科学は、天文学・物理学・化学・地学・生物学など、実験・観察・数理によって支えられている学問分野である。この自然科学の射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の開始から完了まで」にあたる箇所が自然科学の主な研究対象であり、「行為の理由」「決心」「行為のの中断や中止」といった心的過程は、研究対象から除外される。つまり、自然科学の分野は、"心理(パトス)"や"性格・習慣(エートス)"を剔出し、それらを排除して実験や観察をおこなうのであり、基本的に"心理"や"性格・習慣"を欠いている。「人間も自然の秩序のうち」と考えるならば、自然科学の研究だけで、完全な「自然の秩序」をとらえることは、その射程から、困難である。
 他方、社会科学は、政治学・経済学・法学・教育学・史学など社会に関する学問分野で、その射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の理由」「決心」「行為の開始から完了まで」の全域が社会科学の研究対象である。この射程のみを考察すれば、社会科学は、自然科学よりも射程が広く、自然科学では除外されていた"心理"や "性格・習慣"も研究対象であるため、「自然の秩序」を総合的に探究することが可能になる。しかし同時に、社会科学は、〈自由意志〉が抱える〈決定論〉などの問題や「行為の理由と決心」、「決心と行為」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があるという〈自由意志〉という概念装置の問題点までも抱え込むことになる。
 そして、私たちが生きる社会に及ぼす科学の問題点のひとつは、一方の分野では、"心理"や"性格・習慣"を欠き、他方の分野では、デュ・ボア=レーモンが将来においても解決不可能と考えた〈自由意志〉を内包するのが「科学の射程」であるにもかかわらず、科学が万物の解法のように崇められている点である。

 かつて、天動説、燃焼のフロギストン説、光のエーテル説など、現在では誤りとされている説がパラダイム(科学的認識)であった歴史があるにもかかわらず、科学は独特の権威を獲得し、「非科学的」という表現は、現代では、愚かで、非合理的で、侮蔑にふさわしいものを表す言葉になっている。
 このような〈科学主義〉の擡頭に警鐘を打ち鳴らしたのがオーストリア出身の哲学者パウロ・ファイヤアーベントである。

 ファイヤアーベントは、これまでの科学の変遷を鑑み、科学は、普遍的な真理を表すものではなく、科学者集団における信念や主観にもとづく「合意」に過ぎず、科学には合理的基準など一切存在しない、という〈方法論的虚無主義〉を唱えた。そして、ファイヤアーベントは、「ファシズムでさえ、社会的に糾弾すべきではない」という主張を展開するにまで至った。
 この主張の意図は、「ユダヤ人を糾弾して、排除することが善である」というような"独善の確信"がまさに、ナチス・ドイツの独裁政権の原動力だったのではないか、という洞察にもとづいている。つまり、「科学的でなければ、……」といった態度は、ナチス・ドイツと同様の"独善の確信"に他ならない、という指摘である。
 このようなファイヤアーベントの指摘を真摯に受け止めば、科学やヒューマニズムにもとづくものばかりが「根拠がある」とされ、歴史・伝統・文化などにもとづくものを閑却する〈科学主義〉が蔓延している現代を生きる私たちは、今一度、「科学の射程」を確認することが必要なのではないだろうか、そう思った次第である。(了)



〔参考文献〕
トーマス・ピンク著,戸田剛文・豊川祥隆・西内亮平・訳『哲学がわかる 自由意志』岩波書店,2017年
ウィキペディア日本語版「我々は知らない、知ることはないだろう - Wikipedia」
ジョン・R・サール著,三谷武司・訳『社会的世界の制作 人間文明の構造』勁草書房,2018年
サミール・オカーシャ著,廣瀬覚・訳『1冊でわかる 科学哲学』岩波書店,2008年
高橋昌一郎『理性の限界 —— 不可能性・不確定性・不完全性』講談社,2008年
Paul Feyerabend ”AGAINST METHOD“ Verso, 2010