「科学の射程」を知るために、はじめに、〈自由意志〉という言葉を限局しなければならない。
ここで用いられる〈自由意志〉の「自由」は、J.S.ミルが『自由論』で論じた「自由」ではなく、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で、〈eph' hemin〉と述べた「行為は自分次第である」という意味の「自由」である。
〈自由意志〉は、さまざまな信念、欲求、義務などを行為の理由にして、決心し、行為を開始し、行為を完了させる、というのは「自分次第である」という常識である。そして、この〈自由意志〉は、古代から道徳的責任の源泉とみなされてきた。しかし、プロイセン王国の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンが1880年におこなった『宇宙の七つの謎』と題した講演において、将来においても解決不可能であると主張したものの一つが〈自由意志〉であったように、〈自由意志〉は、古代から続く難問のひとつでもある。たとえば、ストア派やラ・メトリーの人間機械論を支持する哲学者たちが主張するように、世界が因果的に決定されているならば、〈自由意志〉は、存在しない。このような考え方は、〈決定論〉と呼ばれている。
反対に、私たちの行為が決定されておらず、全て偶然の成り行きとなると、私たちがどのように行為をするのかも偶然である。そうなると、私たちは、偶然の成り行きを「自分次第」と呼び、その結果を「自分の成果だ」と主張するという、おかしな状態になる。つまり、偶然だけでなり立つ世界でも〈自由意志〉が存在しえない。私たちが常識としている「〈自由意志〉は、本当に、存在するのだろうか?」というのが〈自由意志〉の問題の撮要である。
この〈自由意志〉の問題に、一つの見解を示しているのが米国の哲学者ジョン・R・サールである。
サールは、著書『社会的世界の制作 人間文明の構造』で、〈自由意志〉の問題は、未決としながらも私たちが「自由の経験」をとおして抱いている〈自由意志〉を次のように措定している。
サールによれば、意図的行為の場合、「行為の理由と決心」、「決心と行為の開始」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があり、それぞれの逕庭を紐帯する必然的な要素は存在しない、とする。たとえば、YouTube の動画に刺激を受けて、「夏休みに、自転車で、本州一周の旅をしよう」と決心しても、当の夏休みに、実際に自転車で本州一周の旅ができたかどうかは、「わからない」。同じく、当の夏休みに自転車で、本州一周の旅を始めたからといって、本州一周を達成できたかどうかも「わからない」のである。その「わからない」理由は、サールが措定したように、意図的行為の「行為の理由と決心」「決心と行為の開始」「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係に、逕庭があるからに他ならない。
このように、サールが示した〈自由意志〉の概念装置は、私たちの経験に即したもので、直感的に当を得ている、といえるだろう。そこで、このサールの〈自由意志〉の概念装置を規矩として、「科学の射程」を確認したい。
一般に、自然科学は、天文学・物理学・化学・地学・生物学など、実験・観察・数理によって支えられている学問分野である。この自然科学の射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の開始から完了まで」にあたる箇所が自然科学の主な研究対象であり、「行為の理由」「決心」「行為のの中断や中止」といった心的過程は、研究対象から除外される。つまり、自然科学の分野は、"心理(パトス)"や"性格・習慣(エートス)"を剔出し、それらを排除して実験や観察をおこなうのであり、基本的に"心理"や"性格・習慣"を欠いている。「人間も自然の秩序のうち」と考えるならば、自然科学の研究だけで、完全な「自然の秩序」をとらえることは、その射程から、困難である。
他方、社会科学は、政治学・経済学・法学・教育学・史学など社会に関する学問分野で、その射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の理由」「決心」「行為の開始から完了まで」の全域が社会科学の研究対象である。この射程のみを考察すれば、社会科学は、自然科学よりも射程が広く、自然科学では除外されていた"心理"や "性格・習慣"も研究対象であるため、「自然の秩序」を総合的に探究することが可能になる。しかし同時に、社会科学は、〈自由意志〉が抱える〈決定論〉などの問題や「行為の理由と決心」、「決心と行為」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があるという〈自由意志〉という概念装置の問題点までも抱え込むことになる。
そして、私たちが生きる社会に及ぼす科学の問題点のひとつは、一方の分野では、"心理"や"性格・習慣"を欠き、他方の分野では、デュ・ボア=レーモンが将来においても解決不可能と考えた〈自由意志〉を内包するのが「科学の射程」であるにもかかわらず、科学が万物の解法のように崇められている点である。
かつて、天動説、燃焼のフロギストン説、光のエーテル説など、現在では誤りとされている説がパラダイム(科学的認識)であった歴史があるにもかかわらず、科学は独特の権威を獲得し、「非科学的」という表現は、現代では、愚かで、非合理的で、侮蔑にふさわしいものを表す言葉になっている。
このような〈科学主義〉の擡頭に警鐘を打ち鳴らしたのがオーストリア出身の哲学者パウロ・ファイヤアーベントである。
ファイヤアーベントは、これまでの科学の変遷を鑑み、科学は、普遍的な真理を表すものではなく、科学者集団における信念や主観にもとづく「合意」に過ぎず、科学には合理的基準など一切存在しない、という〈方法論的虚無主義〉を唱えた。そして、ファイヤアーベントは、「ファシズムでさえ、社会的に糾弾すべきではない」という主張を展開するにまで至った。
この主張の意図は、「ユダヤ人を糾弾して、排除することが善である」というような"独善の確信"がまさに、ナチス・ドイツの独裁政権の原動力だったのではないか、という洞察にもとづいている。つまり、「科学的でなければ、……」といった態度は、ナチス・ドイツと同様の"独善の確信"に他ならない、という指摘である。
このようなファイヤアーベントの指摘を真摯に受け止めば、科学やヒューマニズムにもとづくものばかりが「根拠がある」とされ、歴史・伝統・文化などにもとづくものを閑却する〈科学主義〉が蔓延している現代を生きる私たちは、今一度、「科学の射程」を確認することが必要なのではないだろうか、そう思った次第である。(了)
〔参考文献〕
トーマス・ピンク著,戸田剛文・豊川祥隆・西内亮平・訳『哲学がわかる 自由意志』岩波書店,2017年
ウィキペディア日本語版「我々は知らない、知ることはないだろう - Wikipedia」
ジョン・R・サール著,三谷武司・訳『社会的世界の制作 人間文明の構造』勁草書房,2018年
サミール・オカーシャ著,廣瀬覚・訳『1冊でわかる 科学哲学』岩波書店,2008年
高橋昌一郎『理性の限界 —— 不可能性・不確定性・不完全性』講談社,2008年
Paul Feyerabend ”AGAINST METHOD“ Verso, 2010
ここで用いられる〈自由意志〉の「自由」は、J.S.ミルが『自由論』で論じた「自由」ではなく、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で、〈eph' hemin〉と述べた「行為は自分次第である」という意味の「自由」である。
〈自由意志〉は、さまざまな信念、欲求、義務などを行為の理由にして、決心し、行為を開始し、行為を完了させる、というのは「自分次第である」という常識である。そして、この〈自由意志〉は、古代から道徳的責任の源泉とみなされてきた。しかし、プロイセン王国の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンが1880年におこなった『宇宙の七つの謎』と題した講演において、将来においても解決不可能であると主張したものの一つが〈自由意志〉であったように、〈自由意志〉は、古代から続く難問のひとつでもある。たとえば、ストア派やラ・メトリーの人間機械論を支持する哲学者たちが主張するように、世界が因果的に決定されているならば、〈自由意志〉は、存在しない。このような考え方は、〈決定論〉と呼ばれている。
反対に、私たちの行為が決定されておらず、全て偶然の成り行きとなると、私たちがどのように行為をするのかも偶然である。そうなると、私たちは、偶然の成り行きを「自分次第」と呼び、その結果を「自分の成果だ」と主張するという、おかしな状態になる。つまり、偶然だけでなり立つ世界でも〈自由意志〉が存在しえない。私たちが常識としている「〈自由意志〉は、本当に、存在するのだろうか?」というのが〈自由意志〉の問題の撮要である。
この〈自由意志〉の問題に、一つの見解を示しているのが米国の哲学者ジョン・R・サールである。
サールは、著書『社会的世界の制作 人間文明の構造』で、〈自由意志〉の問題は、未決としながらも私たちが「自由の経験」をとおして抱いている〈自由意志〉を次のように措定している。
サールによれば、意図的行為の場合、「行為の理由と決心」、「決心と行為の開始」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があり、それぞれの逕庭を紐帯する必然的な要素は存在しない、とする。たとえば、YouTube の動画に刺激を受けて、「夏休みに、自転車で、本州一周の旅をしよう」と決心しても、当の夏休みに、実際に自転車で本州一周の旅ができたかどうかは、「わからない」。同じく、当の夏休みに自転車で、本州一周の旅を始めたからといって、本州一周を達成できたかどうかも「わからない」のである。その「わからない」理由は、サールが措定したように、意図的行為の「行為の理由と決心」「決心と行為の開始」「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係に、逕庭があるからに他ならない。
このように、サールが示した〈自由意志〉の概念装置は、私たちの経験に即したもので、直感的に当を得ている、といえるだろう。そこで、このサールの〈自由意志〉の概念装置を規矩として、「科学の射程」を確認したい。
一般に、自然科学は、天文学・物理学・化学・地学・生物学など、実験・観察・数理によって支えられている学問分野である。この自然科学の射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の開始から完了まで」にあたる箇所が自然科学の主な研究対象であり、「行為の理由」「決心」「行為のの中断や中止」といった心的過程は、研究対象から除外される。つまり、自然科学の分野は、"心理(パトス)"や"性格・習慣(エートス)"を剔出し、それらを排除して実験や観察をおこなうのであり、基本的に"心理"や"性格・習慣"を欠いている。「人間も自然の秩序のうち」と考えるならば、自然科学の研究だけで、完全な「自然の秩序」をとらえることは、その射程から、困難である。
他方、社会科学は、政治学・経済学・法学・教育学・史学など社会に関する学問分野で、その射程をサールの〈自由意志〉の概念装置にあてはめると、「行為の理由」「決心」「行為の開始から完了まで」の全域が社会科学の研究対象である。この射程のみを考察すれば、社会科学は、自然科学よりも射程が広く、自然科学では除外されていた"心理"や "性格・習慣"も研究対象であるため、「自然の秩序」を総合的に探究することが可能になる。しかし同時に、社会科学は、〈自由意志〉が抱える〈決定論〉などの問題や「行為の理由と決心」、「決心と行為」、「行為の開始と完了までの継続」のそれぞれの関係には逕庭があるという〈自由意志〉という概念装置の問題点までも抱え込むことになる。
そして、私たちが生きる社会に及ぼす科学の問題点のひとつは、一方の分野では、"心理"や"性格・習慣"を欠き、他方の分野では、デュ・ボア=レーモンが将来においても解決不可能と考えた〈自由意志〉を内包するのが「科学の射程」であるにもかかわらず、科学が万物の解法のように崇められている点である。
かつて、天動説、燃焼のフロギストン説、光のエーテル説など、現在では誤りとされている説がパラダイム(科学的認識)であった歴史があるにもかかわらず、科学は独特の権威を獲得し、「非科学的」という表現は、現代では、愚かで、非合理的で、侮蔑にふさわしいものを表す言葉になっている。
このような〈科学主義〉の擡頭に警鐘を打ち鳴らしたのがオーストリア出身の哲学者パウロ・ファイヤアーベントである。
ファイヤアーベントは、これまでの科学の変遷を鑑み、科学は、普遍的な真理を表すものではなく、科学者集団における信念や主観にもとづく「合意」に過ぎず、科学には合理的基準など一切存在しない、という〈方法論的虚無主義〉を唱えた。そして、ファイヤアーベントは、「ファシズムでさえ、社会的に糾弾すべきではない」という主張を展開するにまで至った。
この主張の意図は、「ユダヤ人を糾弾して、排除することが善である」というような"独善の確信"がまさに、ナチス・ドイツの独裁政権の原動力だったのではないか、という洞察にもとづいている。つまり、「科学的でなければ、……」といった態度は、ナチス・ドイツと同様の"独善の確信"に他ならない、という指摘である。
このようなファイヤアーベントの指摘を真摯に受け止めば、科学やヒューマニズムにもとづくものばかりが「根拠がある」とされ、歴史・伝統・文化などにもとづくものを閑却する〈科学主義〉が蔓延している現代を生きる私たちは、今一度、「科学の射程」を確認することが必要なのではないだろうか、そう思った次第である。(了)
〔参考文献〕
トーマス・ピンク著,戸田剛文・豊川祥隆・西内亮平・訳『哲学がわかる 自由意志』岩波書店,2017年
ウィキペディア日本語版「我々は知らない、知ることはないだろう - Wikipedia」
ジョン・R・サール著,三谷武司・訳『社会的世界の制作 人間文明の構造』勁草書房,2018年
サミール・オカーシャ著,廣瀬覚・訳『1冊でわかる 科学哲学』岩波書店,2008年
高橋昌一郎『理性の限界 —— 不可能性・不確定性・不完全性』講談社,2008年
Paul Feyerabend ”AGAINST METHOD“ Verso, 2010