先日のブログに書いた
クンダリーニツアーで、
書かなかった事があるんです。
それは、
相方が私のチャクラを通過中、
第5のチャクラ(喉)を通った時、
無数の鎌が(刃の部分)だけ、
狭い通路に忍者屋敷のギミックみたいに飛び回る危険な空間が広がっているという光景を見たことについて、です。
ここの第5チャクラでは、対人コミュニケーションの様態を表しているようで、私の場合は、人を傷つけかねない、要反省なイメージでした。
言葉でも事実や正論は、時に人を傷つける。
人の心に寄り添った思いやり溢れる言葉は、時に人を慰め勇気づける。
私の場合、前者…事実や正論の言葉が強いのかもしれない。
この事は、昨日の暗雲の試練で、付随的ではあるが、気がついた。他者に言われて気がついたのではあるけれど、思い返せば自分自身でも無自覚に言ってしまうこともあるのだと思う。
“子貢問て曰く、一言にして以て終身之を行なう可き者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施す勿かれ。“(『論語』衛霊公十五、二四)
これ、ですよね。
だから、反省の意を含めて、今日改めて書きました。
恕(ジョ)とは、簡単に言えば「おもいやり」の事です。
誰の心も本来は繊細で清らかなものだが、時に人は、本来の自分自身の心では受け入れられないことでも、利やエゴによって欺瞞を用いてしまう事がある。こういう状態を「放心(自分の心と行動に隔たりがある状態)」というのだと思う。恕(ジョ)という漢字を上と下でバラバラにすると、「心の如し」となるが、自分自身の「心の内」と「行ない」を同じようにする事、これが恕(ジョ)だと思います。
私に足りていない事が、
日々の生活を見つめなおし、
少しずつでも実践したいと思います( ˶ˆ꒳ˆ˵ )
がんばろっと