開港後の安政6年、戸部に「戸部牢屋敷」と呼ばれる監獄がつくられた。その後、収容者も増えてきたため、明治32年、新しい監獄が堀割川沿いの根岸につくられた。現在の磯子区丸山町の一角であるが、当時は根岸村だったので「根岸の監獄」とも呼ばれていた。
新しい監獄は周囲に煉瓦塀をめぐらし、建物は雑居房、独居房、浴室、炊事場、作業所、倉庫などで構成されており、この年には1,000人余りが収監されていた。
大正11年に司法省の監獄局を行刑局と改称した際、監獄を刑務所と称することになり、「根岸の監獄」も正式に横浜刑務所となった。
そして大正12年9月1日、関東大震災が発生。敷地内の建物は全壊または半壊し、煉瓦塀はすべて倒壊した。さらに火災が発生し、看守2名、受刑者52名が圧死・焼死した。
午後6時、所長の椎名通蔵は法に従い、24時間以内に帰還するようにという条件を付けて1,000人を超す囚人を市中へ解き放った。彼らを収容する舎房が崩れ、食料の確保も困難なこと、さらに囚人の家族の安否確認も兼ねての決断だった。
9月30日までの帰還者は780名、残りの300名あまりは逃亡者とみなされたが、その後、他所の刑務所や警察署に出頭した者を含めると、全員が帰還したという。
それは、普段から刑務所を管理運営する所長の考え方が看守や囚人に行き渡っていたからなのではないだろうか。
彼は「刑の目的は応報でなく、教育による犯罪者の更生」という考えに立ち、囚人たちからも信頼を得ていたという。
『磯子の史話』によると、彼らは焼け残りの材料で仮収容所をつくり、さらに町の焼け跡の整理にも精を出して働いたので、住民にたいへん喜ばれたそうだ。
この刑務所がうまく機能していたのは、初代典獄(所長)である有馬四郎助の力によるところが大きいのかもしれない。刑務所は罰を加えることよりも、犯罪者を更生させることの方が重要であるという信念を彼は持っていた。
初代のこういう考え方が、歴代の所長に受け継がれていったのではないだろうか。
関東大震災のとき、有馬四郎助は小菅刑務所の所長だった。囚人が逃亡するのではないかと思った軍隊が刑務所にやって来たが、有馬は「囚人と自分の間には信頼関係があるから銃など無用である」と言って引き取らせたそうだ。結果は、一人の脱走者も出さなかったといわれている。
話は明治時代に遡るが、有馬四郎助は刑務所で働くかたわら、非行少年や出所者の自立を支援するため、明治39年に幼年保護会を立ち上げている。この会は現在、社会福祉法人となり、丸山町で保護施設「甲突寮」も運営しているが、それは有馬ゆかりの地にある。
横浜刑務所は昭和11年、中区笹下町(現・港南区港南四丁目)の現在地に移転。ちなみに港南区役所の敷地内には、横浜刑務所の赤煉瓦を混ぜ込んだモニュメントが建っている。
第62回いそご文化資源発掘隊 横浜芸者が伝える関東大震災から100年 2023年9月1日(金)開催
【参考】坂本敏夫著 『囚人服のメロスたち』
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