杉田劇場から

2005年2月5日にオープンした磯子区民文化センター杉田劇場のスタッフが綴るブログ。公演案内の他に美味しい情報も♪

いそご文化資源発掘隊がゆく「汐見台」

2018-11-26 | 公演・イベントのご報告
汐見台

 いそご文化資源発掘隊の第41回目が開催されました。今回の訪問先は、知っているようで知らない町「汐見台」です。
 午前10時、京急屏風浦駅前に集合し、歴史や町に詳しい春田さんの案内で出発。

20181125いそご文化資源発掘隊 (9)

 まずは、屏風浦のガード下から続く細くて急な清水坂を登っていきます。現地には坂の名前を書いた表示板がありませんが、区民生活マップを見ると、この道に「清水坂」と書いてあります。

20181125いそご文化資源発掘隊 (8)

 春田さんの情報量はかなりのものですが、もっとすごいのは健脚であることです。

20181125いそご文化資源発掘隊 (10)

 坂を登り切ったら、こんな絶景が待っていました。

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 幹線道路に出ると、古い石碑がありました。

20181015汐見台下見 (17)

 何が書いてあるのか、かなり風化していて読みにくいのですが……

20181015汐見台下見 (18)

 側面には建立した年月が彫られています。嘉永六年三月。ということはペリー艦隊の黒船が来航する3か月前です。もしかしたら、ここで黒船を眺めていた人たちがいたかもしれませんね。

20181015汐見台下見 (20)

 春田さんがむかし撮影した時の写真を持ってきて、ここに彫られていた文字を再現してくれました。聞けば、やはり道案内でした。
 そして、この石碑を寄進した村の名前が彫られていたのですが、今はかなり薄くなってしまっています。

20181125いそご文化資源発掘隊 (12)

 近くの電柱に貼りつけられたNTTのケーブル名。「清水谷」という地名が確認できます。この辺の谷戸が清水谷というのでしょうか。そして、そこに流れていたのが清水川……かと思ったら、そうではないようで、川の名前は陣屋川だとか。下流に陣屋があったから、この名前が付けられたそうです。
 でも、いま登ってきた清水坂とこの清水谷は関係がありあそうです。

20181125いそご文化資源発掘隊 (14)

 汐見台で最も標高が高いところまでは、あと少しです。
 この辺りには松並木があったそうですが、病害でこんなに減ってしまったといいます。

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 大塚というこんもりした塚に登ると、三角点がありました。94.6mです。
 古い地図を見ると、旧字名(あざめい)が大塚と書かれています。もしかしたら富士塚だったのかもしれませんね。

20181125いそご文化資源発掘隊 (16)

 三角点から少し行ったところに、第2の絶景ポイントがありました。霞がかかって見づらいですが、彼方には富士山が!

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 汐見台の中心地にやってきました。ここにはスーパーやら汐見台会館などがあり、しばしトイレタイム。
 汐見台にお住いの参加者に、「ずいぶん幼稚園がありますね」と聞くと、「少子化が進んでいるから、これからは減っていくのではないかな。それよりも高齢者が多くなっているのに、そういう方々が必要とする施設がほとんどないのよね」と。
 そんな話を聞きながら、森方面へ向かいます。

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 ここは、エグザイルのヒロさんが子供のころ住んでいた一画だそうです。どの棟かは分かりませんが……

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 汐見台の中にある公衆電話。街中で見かけるものとは、どこかが違います。それは、ケーブルが無いことです。この町には電柱が無いため、電話線も地下から取り入れているんでしょうね。

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 ここから坂道を下って森浅間神社へ向かいます。

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 境内を一通り回って集合写真をパチリ!

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 境内から少し下ったところにある朝日不動滝。横に建てられた由来版によると……

 この滝の水源は背後の赤穂原台地から湧出する清水で、古来より存在していた。
 建武二年(1335)、鎌倉扇ヶ谷亀谷山権現堂六代修験者長円訪印、時の将軍守邦親王の命により創建された浅間神社より百五十年後の明応年間(1492~1500)、権現堂十五代修験者長恵訪印が武州森村に移り住むに及んで、これを開設したと伝えられる。
 ついでこの滝に不動明王を祭り不動滝として修験者の修業の場とした。
 寛政十二年(1800)、幕府により女人の富士登山が許されてから富士信仰が盛んになり、各地に富士講中ができた。森浅間神社には、富士山をかたどり三方からの登山路があり、信者から武州小富士として崇敬され、多くの富士講中の人々が白装束でこの滝に打たれて祈願した。滝の口から流れ落ちる水に朝日が輝く荘厳さに、朝日滝とも称された。
 今は台地の開発により水の量は半減した。滝壺の左上に清滝神社があり、弁天様が祀られていたが、明治四十一年、浅間神社に合祀された。大正九年、地元有志により改修が行われた。
 昭和三十六年六月、集中豪雨のため崩壊埋没し現在に至った。
 昭和五十六年五月より神社総代世話人会有志により滝壺の浚渫を行い、埋没していた不動明王(崖面中央)と、その使者である制多迦童子(向かって左)、金伽羅童子(向かって右)二体の石造を発掘したが、破損のため新たに復元し、旧石像二体を祠に安置した。

ということが書いてあります。

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20181015汐見台下見 (102)



20181015汐見台下見 (101)



 滝を見たあとは、階段を下って国道16号線へ。ここで皆さん、解散です。

 今回の発掘隊で良かったこと。それは近隣に住んでいても知らなかったことを発見した喜びだけではなく、お互いに汐見台に住んでいながら今まで面識のなかった方々が、このイベントをきっかけに知り合いになったことでしょうか。
 地縁・血縁という「ち」でのつながりは昔からありますが、これまで接点のなかった人同士がイベントや市民活動で知り合う「知縁(ちえん)」に協力できたのは大きな収穫だったと思います。



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