杉田劇場から

2005年2月5日にオープンした磯子区民文化センター杉田劇場のスタッフが綴るブログ。公演案内の他に美味しい情報も♪

横浜海軍航空隊の跡を訪ねて

2022-05-09 | 地域の歴史

 3月11日に開催した「第54回いそご文化資源発掘隊」は盛況のうちに終了し、その結果報告をホームページに掲載しました。こちらのブログ記事ではホームページに載せられなかった写真をアップしていきます。

 冒頭の写真は横浜海軍航空隊(略称:浜空)の跡地である富岡総合公園の入り口です。

 国道16号線の鳥見塚信号のところを入っていくと、このような旧横浜海軍航空隊の隊門があります。昔はここに憲兵が立っていたのでしょう。

 旧隊門からしばらく歩いていくと、右側に浜空の碑があります。

 大鵬渡海奏奇功 離島守防意気隆 衆寡難勝嗟惨々 至誠不抜憶濱空

 裏面には「浜空の碑」として由来が書いてあります。

 この地に原隊を有せし飛行艇隊元横濱海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二昼夜にわたる死闘の末 宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
 これらの人々の冥福と恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和六十一年四月吉日

 浜空の碑を背にして先へ進んでいくと、正面に浜空神社跡が見えてきます。

 昭和13年に浜空の隊内神社として鳥船神社を創建。昭和56年、鳥船神社跡地に浜空神社を再建。

 かつてはここに神社があったのですが、世話をする人たちが高齢化により減少し、これ以上続けられないということで、平成20年、維持困難となり追浜空関係者の尽力により横須賀の雷神社に遷座しました。

 跡地には「鎮魂」と彫られた石碑が建っています。

 浜空神社の由来。

 昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された その守護神として造営されたのがこの浜空神社である
 昭和二十年八月十五日 大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生まれ変わったのである
 浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した
 横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾に水上の飛行艇発着場を専有していた 隊員約1千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである
 今なお隊門付近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ふ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる
 時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した
 十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した 引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母隊として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒攻撃輸送救出作戦等を展開しハワイ印度アリューシャン豪州ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した
 作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである
 中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて十七年八月宮崎司令以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである
 富岡のこの地はかくの如き誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである
 この事実を永く後世に語り継がんが為ここに記念碑を建立する次第である
 昭和六十三年一月
 海軍飛行艇会 建之

 桜の由来。

 この桜は昭和十一年十月横浜海軍航空隊がこの地に開隊されたとき隊員の手で植樹され大切に育てられたものである

 年々歳々花変わらねど

 征きて還らぬ戦友多かりき

 戦後は米軍によって飛行艇の底に穴をあけられ根岸湾に沈められた。

 この絵は杉田商店街にある「菓子一」の相原一郎さんが描いた二式大艇。半分沈んでいる。右奥は横浜海軍航空隊のクレーン。

 同じく相原さんの絵。昭和26年に海中から引き揚げていたという。

 富岡総合公園の高台に登って海軍航空隊の跡地を眺めてみました。

 海は埋め立てられ、工場や住宅が建ち並んでいます。

 下に降りると昔の大格納庫がそのままの姿で残されています。現在は神奈川県警第1機動隊が活用しています。

 米軍撮影の旧横浜海軍航空隊。


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