81年前の今日(12月8日)は、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日です。
それと同時に、横浜には2つの抑留所が設けられ、根岸競馬場《神奈川第1》に59人、横浜ヨットクラブ《神奈川第2》に34人の敵国外国人が抑留されました。(横浜市開港資料館館報より)
根岸競馬場は現在の根岸森林公園に、横浜ヨットクラブは新山下町に、それぞれありました。どちらも磯子区内ではありませんでしたが、お隣の中区内にあった施設です。
しかし、当時、磯子区内には飛行艇の基地が2つもありました。一つは富岡の横浜海軍航空隊で、もう一つは根岸の大日本航空の飛行場です。
ちなみに、富岡といえば現在は金沢区ですが、昭和23年5月の分区までは磯子区の一部した。また大日本航空は民間の飛行機会社でしたが、戦争がはじまると海軍に徴用されて、軍事的に使われることになります。この飛行艇を製作していたのは川西飛行機でした。
磯子区内には、もう一つ軍事的に利用される会社がありました。それは日本飛行機(当初は株式会社日本飛行機製作所)です。昭和9年に設立総会が開かれ、商号が日本飛行機(株)となりました。
昭和10年に杉田工場が完成し、操業が開始されました。そして昭和12年、94式水上偵察機が完成すると、翌13年には海軍大臣より、「工場事業場管理令」に基づき、杉田工場全体を管理する旨の指令を受けました。
昭和15年、海軍大臣より、「軍用資源秘密の指定」及び「秘匿措置」を命ぜられ、工場名称を富岡製作所へ改称。
そして昭和16年12月、戦争がはじまると現員徴用並びに新規徴用を実施。徴用人員は2,320名となります。翌17年には13式小型輸送機(国産初の水陸両用機)が完成。
昭和19年、軍需会社法により軍需会社に指定されました。この年の6月、日飛病院が南区吉野町に開設されましたが、これは翌20年5月29日の横浜大空襲で被災し、1年足らずで消えてしまいます。そして富岡製作所は皇国第2736号と改称。
同年6月、空襲により皇国第2736号(富岡製作所)が罹災。終戦を迎える直前に再び空襲を受け、死者4名、重症名1名、軽傷1名。
8月、終戦により閉業。富岡製作所の罹災率は76%に達していました。そして11月、進駐軍の全面接収を受け、飛行機は造れなくなってしまいました。
昭和21年1月、商号を日飛産業(株)に変更。飛行機を製造しなくなったので、このような名称にしたのでしょうか。
ちなみに、この1月1日には日本飛行機の下請けをやっていた高田菊弥が旧杉田劇場をオープンさせています。
昭和23年3月、日飛産業(株)は米軍の軍用自動車エンジンと部品の修理再生作業を請け負うことになりました。終戦から2年半後のことでした。
翌24年、日飛産業(株)は解散し、新しく日飛モータース(株)が設立されました。そして12月、杉田工場が米軍229部隊の所管となり、「ヨコハマオーディナンスセンター ファストバタリオン リターンドマテリアル エリア スギタオーディナンスショップ」と呼ばれるようになりました。
昭和27年、GHQが航空機・兵器の製造許可を政府に指令し、ようやく飛行機の製造が認められることいになりました。翌28年、商号を新日本飛行機(株)に改称し、社名に飛行機が復活。そして29年、ようやく杉田工場航空機工場の開所式が行われました。
昭和31年4月、いよいよ商号が日本飛行機(株)となり、昔の名前が復活しました。
【以上は『日本飛行機60年史』より】
現在の日本飛行機(株)のホームページはコチラ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます