アイコは午前中で切り上げた塾の後、その足で約束の待ち合わせの場所に向かった。
途中、下車した駅でコインロッカーから荷物を取り出すと、代わりに鞄を放り込む。行楽日和の駅前通りは観光客で賑わいを見せている。
アイコは肩付近で切りそろえた髪をなびかせ、その人ごみを軽やかに抜けると坂伝いの商店街を一気に駆け降りていった。
坂道をひとしきり下りきったところで一旦大きく隆起した土手が立ちふさがるのであるが、その上には高速道が通っているためわざわざ迂回して高架下を潜ってゆかなければならない。
この高架の建設工事中にはそのためえらく付近の住民ともめたのだそうだが、今ではそれもごく日常の光景となってしまっている。
アイコもまた迂回ルートへと、やや煩わしいと感じつつ進入するのであるが、トンネルを越えた次の瞬間、目の前の光景に煩わしさなどは一気に吹き飛んでしまっていた。
それははるか遠くに見渡す山の尾根を、鏡のような水面が反転して映し出す湖面の青。ちろちろと湖面の波に揺れる夏陽の照り返しは高架下の低い位置から上がってくるとまるで天上にまばゆく輝く銀河の流れのようにさえ感じる。
「うわ、はぁっ!」
思わず口をついて出てしまった歓喜を誰かに聞かれていたのではないかと一瞬我に返りつつ、それでも浮き立つ心が静まらないアイコは、勢いのまま左手に遊覧船の浮かぶ湖面に沿ってその先のハイキングコースへと駆け入っていった。
ピクニックランドのメインゲート脇、駐車場には既に重装備のギイチが待ち構えていた。
「やるね、時間通り!さすがアイコさん正確!」
「あ~、ウソっ。一番乗りだと思ってたのに」
ハイキングコースを充分満喫してから到着したアイコであったが、それでも普段から約束を違えぬことには自負があっただけに、それが決して自分が遅刻したわけではないにしろ他者に遅れを取ったことが少々悔しくもある。
それを察してか、単に遠慮がちな性格のためか、ギイチはしなくても良い弁明をはじめる。
「今日はお父さん、午後からロケだって言うから、ついでにバンに乗せてきてもらったんだ。ほら、この通りの大荷物でしょ?徒歩で来るのはしんどいからね」
それを聞いたアイコの表情がにわかに強張った。
「ギイチ君、あなたもしかして今日の事喋ったの!?」
「まさか、お父さんにはテツヤたちと泊りがけで山登りだって言ってあるよ。…もちろん、先生同伴ってウソついてね」
「…呆れた。よくもまぁ、そんな嘘信じて貰えるわね…」
品行方正、成績優秀、クラスの模範生徒、おまけに児童会長と、教師受けの見本市状態のギイチだからこそなのではあろうが、アイコは思わずズレたやや大きめの眼鏡を押さえ、大袈裟に天を仰いだ。…少なくとも、自分の「父親」にはそんな嘘到底通じない。
「…それで、テツヤは…」
聞きかけて、アイコはすぐに思い直した。
「ど~せ、まだか。あの遅刻魔が時間通りに来るわきゃあないものね」
「あ、いや。そうでもないみたいだよ。ほら!」
さも意外といった様子でギイチが指差す先にはハイキングコースを猛疾走して来るママチャリ少年の姿があった。
どう見てもオフロード向きではない細めのタイヤで、でん!と組み木階段を蹴り上げるとクヌギの林を器用に縫って山道を駆け下りてくる。
二人の目前でドリフトよろしく急停車したいかにも快活そうなつんつん頭の少年は、しばしの間ぜえぜえと息を切らし、ようやく一息ついてから相好を崩した。
「悪りぃ!遅れた!」
テツヤは片手をかざすと二人に詫びる。もちろん本気で謝っているわけではなく、多分、これっぽっちも悪気は感じていない。
こんなに汗だくで走ってきたのだって…ど~せと、アイコ。
…最初はタラタラ走っているうちに湖畔の光景に感極まってしまって、意味なく全速力で突っ走ってみたかっただけに違いない…。
さっき自分がそうだったことをすっかり棚に上げている。
だがギイチはそうは解釈しなかったようで、素直に「早い遅刻」で到着したテツヤを迎え入れる。
「そんなこと無い、いつもよりずっと早かったよ。僕らも今来たとこなんだ」
「へへへぇ、言いだしっぺが遅れてくるわけにゃあいかねぇかんな!」
「でも遅刻には変わりないわ」
「何言ってんだぇ!お前が今日塾だってから、わざわざ待ち合わせを午後にしてやったんじゃねぇかよ!」
アイコの嫌味にテツヤが噛み付くが、すかさずアイコも応戦する。どちらが口が達者かと言うのもあるが、双方相対すると頭半分アイコの方が身長があるため自然、口げんかではテツヤは不利になる。
それが証拠に、テツヤの口調には早くも多摩訛りが混じりはじめている。これは精神的に余裕が無いなによりの証だ。
「恩着せがましい事、言わないでくれる?塾はギイチ君だって同じだし、あんただって夏休みでお店手伝ってたんじゃないのよ!」
「アイコさん、それ、とばっちり…」
小声でギイチが不満を漏らすが、毎度の二人の罵りあいにはそれも息継ぎの合いの手代わりでしかない。
「夏休みだから観光客で昼時は忙しーんだよ!うちバイト雇ってる余裕なんか無ぇもん!」
「だったらお互い様じゃない、偉そうにしないでよ!」
「何だぇ!最初にフっかけてきたのはそっちだろーがよ!」
「大元は、アンタの遅刻が原因。それも毎回よ?」
「…ねぇ、二人とも、そろそろ行かないと遅くなっちゃうよ」
ヒートアップしかけた二人の間にギイチが割って入る。いい加減仲裁に入らないとこの二人はいつまでもいがみ合っているのだ。
今にもつかみかからんばかりのテツヤの腕を、わざと大袈裟に振りほどいたアイコは大きく息を整えて眼鏡を直した。
「…まぁいいわ、こんなとこで時間潰すのも嫌だし。行くんなら早く行きましょ!」
今日はこのくらいにしといてやるとばかりに、アイコは一度テツヤに向けて舌をんべっ、と出すと、地面に放り出していた荷物を拾い上げる。テツヤもテツヤでまだぶつくさ言いながら自転車にチェーン錠をかけはじめた。
「ハイハイ、りょーかい致しましたよ!リーダー様」…ちゃんと口撃も忘れずに。
「いやよ!人を悪企みの元締めに祭り上げないでよっ!」
「あ~もぉ、いい加減行こうよ!」
諍い半分、戯れ合い半分で三人は出発する。
テツヤ・アイコ・ギイチ…。三人は思い思いの場所にお揃いのドクロを模ったキーホルダーを下げている。それは彼等の「仲間」の証しだった…。
途中、下車した駅でコインロッカーから荷物を取り出すと、代わりに鞄を放り込む。行楽日和の駅前通りは観光客で賑わいを見せている。
アイコは肩付近で切りそろえた髪をなびかせ、その人ごみを軽やかに抜けると坂伝いの商店街を一気に駆け降りていった。
坂道をひとしきり下りきったところで一旦大きく隆起した土手が立ちふさがるのであるが、その上には高速道が通っているためわざわざ迂回して高架下を潜ってゆかなければならない。
この高架の建設工事中にはそのためえらく付近の住民ともめたのだそうだが、今ではそれもごく日常の光景となってしまっている。
アイコもまた迂回ルートへと、やや煩わしいと感じつつ進入するのであるが、トンネルを越えた次の瞬間、目の前の光景に煩わしさなどは一気に吹き飛んでしまっていた。
それははるか遠くに見渡す山の尾根を、鏡のような水面が反転して映し出す湖面の青。ちろちろと湖面の波に揺れる夏陽の照り返しは高架下の低い位置から上がってくるとまるで天上にまばゆく輝く銀河の流れのようにさえ感じる。
「うわ、はぁっ!」
思わず口をついて出てしまった歓喜を誰かに聞かれていたのではないかと一瞬我に返りつつ、それでも浮き立つ心が静まらないアイコは、勢いのまま左手に遊覧船の浮かぶ湖面に沿ってその先のハイキングコースへと駆け入っていった。
ピクニックランドのメインゲート脇、駐車場には既に重装備のギイチが待ち構えていた。
「やるね、時間通り!さすがアイコさん正確!」
「あ~、ウソっ。一番乗りだと思ってたのに」
ハイキングコースを充分満喫してから到着したアイコであったが、それでも普段から約束を違えぬことには自負があっただけに、それが決して自分が遅刻したわけではないにしろ他者に遅れを取ったことが少々悔しくもある。
それを察してか、単に遠慮がちな性格のためか、ギイチはしなくても良い弁明をはじめる。
「今日はお父さん、午後からロケだって言うから、ついでにバンに乗せてきてもらったんだ。ほら、この通りの大荷物でしょ?徒歩で来るのはしんどいからね」
それを聞いたアイコの表情がにわかに強張った。
「ギイチ君、あなたもしかして今日の事喋ったの!?」
「まさか、お父さんにはテツヤたちと泊りがけで山登りだって言ってあるよ。…もちろん、先生同伴ってウソついてね」
「…呆れた。よくもまぁ、そんな嘘信じて貰えるわね…」
品行方正、成績優秀、クラスの模範生徒、おまけに児童会長と、教師受けの見本市状態のギイチだからこそなのではあろうが、アイコは思わずズレたやや大きめの眼鏡を押さえ、大袈裟に天を仰いだ。…少なくとも、自分の「父親」にはそんな嘘到底通じない。
「…それで、テツヤは…」
聞きかけて、アイコはすぐに思い直した。
「ど~せ、まだか。あの遅刻魔が時間通りに来るわきゃあないものね」
「あ、いや。そうでもないみたいだよ。ほら!」
さも意外といった様子でギイチが指差す先にはハイキングコースを猛疾走して来るママチャリ少年の姿があった。
どう見てもオフロード向きではない細めのタイヤで、でん!と組み木階段を蹴り上げるとクヌギの林を器用に縫って山道を駆け下りてくる。
二人の目前でドリフトよろしく急停車したいかにも快活そうなつんつん頭の少年は、しばしの間ぜえぜえと息を切らし、ようやく一息ついてから相好を崩した。
「悪りぃ!遅れた!」
テツヤは片手をかざすと二人に詫びる。もちろん本気で謝っているわけではなく、多分、これっぽっちも悪気は感じていない。
こんなに汗だくで走ってきたのだって…ど~せと、アイコ。
…最初はタラタラ走っているうちに湖畔の光景に感極まってしまって、意味なく全速力で突っ走ってみたかっただけに違いない…。
さっき自分がそうだったことをすっかり棚に上げている。
だがギイチはそうは解釈しなかったようで、素直に「早い遅刻」で到着したテツヤを迎え入れる。
「そんなこと無い、いつもよりずっと早かったよ。僕らも今来たとこなんだ」
「へへへぇ、言いだしっぺが遅れてくるわけにゃあいかねぇかんな!」
「でも遅刻には変わりないわ」
「何言ってんだぇ!お前が今日塾だってから、わざわざ待ち合わせを午後にしてやったんじゃねぇかよ!」
アイコの嫌味にテツヤが噛み付くが、すかさずアイコも応戦する。どちらが口が達者かと言うのもあるが、双方相対すると頭半分アイコの方が身長があるため自然、口げんかではテツヤは不利になる。
それが証拠に、テツヤの口調には早くも多摩訛りが混じりはじめている。これは精神的に余裕が無いなによりの証だ。
「恩着せがましい事、言わないでくれる?塾はギイチ君だって同じだし、あんただって夏休みでお店手伝ってたんじゃないのよ!」
「アイコさん、それ、とばっちり…」
小声でギイチが不満を漏らすが、毎度の二人の罵りあいにはそれも息継ぎの合いの手代わりでしかない。
「夏休みだから観光客で昼時は忙しーんだよ!うちバイト雇ってる余裕なんか無ぇもん!」
「だったらお互い様じゃない、偉そうにしないでよ!」
「何だぇ!最初にフっかけてきたのはそっちだろーがよ!」
「大元は、アンタの遅刻が原因。それも毎回よ?」
「…ねぇ、二人とも、そろそろ行かないと遅くなっちゃうよ」
ヒートアップしかけた二人の間にギイチが割って入る。いい加減仲裁に入らないとこの二人はいつまでもいがみ合っているのだ。
今にもつかみかからんばかりのテツヤの腕を、わざと大袈裟に振りほどいたアイコは大きく息を整えて眼鏡を直した。
「…まぁいいわ、こんなとこで時間潰すのも嫌だし。行くんなら早く行きましょ!」
今日はこのくらいにしといてやるとばかりに、アイコは一度テツヤに向けて舌をんべっ、と出すと、地面に放り出していた荷物を拾い上げる。テツヤもテツヤでまだぶつくさ言いながら自転車にチェーン錠をかけはじめた。
「ハイハイ、りょーかい致しましたよ!リーダー様」…ちゃんと口撃も忘れずに。
「いやよ!人を悪企みの元締めに祭り上げないでよっ!」
「あ~もぉ、いい加減行こうよ!」
諍い半分、戯れ合い半分で三人は出発する。
テツヤ・アイコ・ギイチ…。三人は思い思いの場所にお揃いのドクロを模ったキーホルダーを下げている。それは彼等の「仲間」の証しだった…。