思い出はふいによみがえってくる。
川渡(かわわたり)が当時務めていた小さな出版社は経営困難に陥り崖っぷちだった。
その月はラバーカップ特集の雑誌を作っていた。
ラバーカップとは俗にいう「スッポン」または「トイレシュポシュポ」のことである。
常識人ならばこんな雑誌を買うこと自体正気の沙汰ではない。
しかし、世には「マニア」と呼ばれる人々が存在し、彼らは「普通ではない」と思われる行為を実行できる人々だ。(「マニア」とはギリシャ語で「狂気」を意味する)
隠れて集めるもの、誰かと競うように集めるもの、みんなに見せたくて集めているもの等様々だが、集める行為に高揚感を得、それで彼らの心はそこそこ満たされるらしい。
ならば中身はあまり関係がないかというと、そうではない。
ラバーカップ特集の中身はラバーカップのありとあらゆる写真、的確な使用方法、ラバーカップの歴史、開発者たちの証言、四コマ漫画、批評など、200ページ以上に及ぶ分厚い内容である。
この重厚さが彼らの収集に絶大な達成感を与え、彼ら自身の人格にも説得力を与えてくれる。
注意したいのは川渡が作っている雑誌はラバーカップ専門雑誌ではない。
巷の雑誌では特集されないものをあえて毎月特集するというのがこの雑誌のコンセプトである。
この雑誌は12年続いている。
はじめの3年は現在の社長が今は亡き友人と2人で雑誌を山積みしたリヤカーを引っ張って公園や駅前等で歩き周り雑誌を売っていた。
それをテレビのバラエティ番組が取り上げたことにより一気注目され、サブカル好きの集まる書店の中でカルト的な人気を誇ったのだった。
一時は二番煎じのような雑誌も多数あったが、どこもこの雑誌には勝てなかった。
斬新で奇抜なアイデアはあったとしても、中身の充実度では天地雲泥の差があった。
空き缶特集、指の鳴らし方特集、テストの間違い特集などあらゆるものに凄まじい熱量と冷静な分析能力で焦点をあてていった。
川渡の一番のお気に入りは「円周率特集」であった。200ページ限界まで円周率を書いた。
これにはさすがに愛読者からも「やりすぎだ」という意見が多数よせられた。
事件が起こったのはラバーカップの表紙について議論していた時である。
5通りの表紙案が会議室の長机の上に置かれていた。
表紙の作成は最もセンスが問われる。
パッと書店で見て「なんだこの雑誌」と思わせなければならない。
会議室では川渡を含めた社員3人が長机の上でうなっていた。
どの案も悪くはないけど、それぞれ改良の余地を残しており、また改良しても果たして素晴らしい表紙になるのかわからなかった。今回の特集は抜群の出来だっただけに表紙も妥協はしたくなかった。
いっそ作り直した方がいいのではないかと川渡は2人に言おうかと悩んでいた。
ノックの音がして頬のこけたガリガリの女性社員がお茶を入れてきた。
3人ともガリガリの女性社員の存在には気づかずにうなっていた。
彼女が部屋を出ようとドアを開けた時、1人の老人が「おほん」と咳をして会議室に入ってきた。
3人はガリガリの女性社員の時とはうってかわって、老人の方向を向き即座に立ち上がり頭を深々と下げた。ガリガリの女性社員は老人にお辞儀をしたあと音も立てず誰にも気づかれないまま部屋を出た。
老人は会議室で一番奥の席に座り、俯いて煙草に火をつけた。
「はかどっているか?」
髪を肩まで伸ばしたメガネの男が老人の問いに答えた。
「いえ、あの、それがその若干、煮詰まっています…」
老人が少し顔を上げた。
「諸君もお分かりの通り、雑誌の部数が伸び悩んでいる。今年出したものは全て赤字だ。今回の特集が最後になるかもしれない」
長身でピッチリと整えたオールバック、大きな目の男がため息をつき、机をたたいた。
「社長、僕らお金なんていりません。お金なら僕が出します。なんとかこの雑誌を続けられないでしょうか」
大きな目の男の実家は金持ちだったので「余裕があるからそんなこと言えるんだ」と、川渡は思った。
老人は首を横にふり、和やかな口調で答えた。
「お前たちの気持ちは嬉しいが、駄目だ。
もう世間は変わったものなんて必要としていない。
これから無駄なものはとことん排除されていくだろう。便利な雑誌だけが残るよ」
老人は痛みをまぎらわすかのように窓の外の太陽を細い目で見つめていた。
「しかし、お前たちの仕事は誰もが認めている。
今までの仕事ぶりをもってすれば、他の雑誌でも十分通用するはずだ。
お前たちのためにも、もうこの雑誌はなくすべきだ」
3人は言葉が出なかった。
ドアがノックされ、先ほどのガリガリの女性社員が入ってきた。
「あの~」と、ただでさえ困ったような顔をこれ以上ないくらいにくしゃくしゃにさせ、彼女は誰かを紹介するように後方へ下がった。
女性社員の皮と骨しかないみすぼらしい足をくぐり抜けてすばやい動きでまっ黒い物体が会議室へ入ってきた。
老人と3人はギョッとした。
川渡の背中をポンっと叩く音がした。
「諸君!」
声は後ろから聞こえた。
恐る恐る振り返ると2メートルの大きな体、全身は真っ黒な毛におおわれ、小さな頭から鼻がにょきっと前に垂れ下っているアリクイのような生き物が2本足で立っていた。見た目は大きなアリクイだが、口調は紳士だった。
「この雑誌のことは知っているよ。まさに崖っぷちってこともね」
真っ黒い顔の中からにぶく目のようなものが細かく光った。表情は分からないが笑っているようだった。
「しかし、こんな変わったものばかり特集して、飯が食えてたなんて奇跡だな。」
表紙案の1枚をマジマジと眺めて、長机の上に無造作に落とした。
老人が口を開く。「アリクイ…?」
アリクイのような生き物は気にせず話をつづけた。
「私がこの出版社を復活させてみせよう。諸君らは私に従ってもらう。」
何を言ってるのかのみこめない老人と3人の顔を順番に見つめた。こっちから目はよく見えないが、長い鼻が方向を変えてそれぞれと向き合った。
アリクイのような生き物は四つん這いになり老人の方へむかった。
「私はアリクイではない」
アリクイのような生き物は老人の目の前で立ち上がった。
「私は生まれてこの方…」
生い立ちを話そうとするアリクイのような生き物の背後へ目の大きな男が体当たりをした。
アリクイのような生き物はよろけて長机に手をついた。
目の大きな男はすかさずその手を蹴飛ばし、アリクイのような生き物は長机に顔を打ち地面にたたきつけられた。
髪を肩まで伸ばしたメガネの男がアリクイのような生き物を押さえつけた。
「川渡!」と2人に呼ばれたので川渡は触るのも嫌だったがアリクイのような生き物を押さえつけた。
いつの間にかガリガリの女性社員もすぐそばにいて頑丈なポットでアリクイのような生き物の頭をガツンっと打った。
アリクイのような生き物はこもったドリルのような奇声を上げ激しく脈打ったが、数分後動きがとまった。
老人は静かに立ち上がり、動かなくなった真っ黒い物体を覗いた。
「こんな不気味な生き物が…」
髪を肩まで伸ばしたメガネが興奮した息を整えて、
「死んだんですかね…」と誰を見るわけでもなくこぼす。
夕日が部屋を赤にそめた。
川渡はちょいちょいこの記憶を思い出す。