豆日記

小豆原一朗の日記

四月

2010年04月16日 | 豆日記
ドラえもんが出す道具に胸ときめかすのび太 の様に
僕は一時期音楽に夢中な日々があった。
あの曲のあのフレーズがあれば生きていける!
なんて本気で思った。

だけど、のび太はのび太のまま。
やるのは自分次第。行動を起こさねば、変わらない。
行動の前に音楽は無力だ。
反戦の歌も乱暴な戦闘機や機関銃の音の前では無力だ。
僕は日々の生活で音楽の無力さを知った

が、

ドラえもんが道具を通してのび太に教訓を諭すように
音楽は行動への信念を強くさせる。
僕はいつまでもドラえもんに頼ってはいけない。
と思った。
やらなければならぬ時、いつまでも机にかじりついてはいられないのだ。

僕は音楽というものをある程度突き放してみた。
この曲はなんで人の心を奪う魅力があるのか?
この曲はどうやって生まれたのか?
僕は更に音楽を聞いた。
でも、以前の様な「生きる上で不可欠」という必死さは薄くなった。
「最初はよく分からないけど、段々良さが分かってくる」
なんて以前にはない考えも持った。
そこにあるのは主観的視点と同じ位の重要さをおびた客観的な視点だった。
これは全くもって成長というやつで
リスナーというのはこのプロセスを経て音楽の深い楽しみ方を知る。
のび太のままでは音楽の深い所には行けない。
のび太同士の会話では「やばい」「なんかすげー」くらいしか言えない。
僕はドラえもん研究家になった。

そして、僕は今、曲というものを作ってるわけだ。
言うなれば、僕はドラえもんになった。
そして、ドラえもんはステージ上、様々な人と出会う。
そして、去っていく人もいれば、また新たに現れる人もいるわけだ。

色んな人が現れては消え、消えては現れ
今の今までずっと見守ってくれた人なんてほんのわずかだ。
と同時に完全に一人にはならなかった。
僕の音楽を欲してくれる人には幸運にも出会えた。
そして、その人もいつかまた去っていくのだろう。

僕は僕で、出せる道具はそんなに急に変われない。
あなたはあなたで、そんなに一つのものに留まれない。

相変わらず、僕の出せる言葉なんてのは僕の言葉なんだ。

四月になった。
そんな想いをこめて僕は四月に手紙を書いた。

久しぶり四月
相変わらずお前の一日目、第一歩目は嘘でべっとり
残った二十九日通過した頃は、大抵の嘘は流されるんでしょうよ
桜の木の下わははと笑うは花見のやつらが残した残骸や空しさ
ゴミ箱の中へ隠れてもほとんど溢れだす程のわびしさ
出会いと別れの季節ともてはやされたわりには人って奴は
随分と流れる風景を自分の色に染めていくんだな
だから変わりゆ人よ、ゆっくり変わる景色よ、流れる時よ、
止まることなく、嘘も残骸も空しさわびしさも振り返ることのなく
僕とまたお別れの挨拶を交わそう

まめ

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