京の一枚

京都 紅葉100シリーズ 鈴虫、松虫の安楽寺


紅葉状況


法然院と同様に見頃は12月。



境内が拝観出来る時期はまだ見頃でない。


境内の紅葉は少ししかなく、何と言っても入り口の風景が絵になる。


るるぶ2000”京都を歩こう”の表紙に、紅葉の絨毯の写真が使われた。


雨の日以外は朝9時過ぎに落ち葉は掃かれてしまうので、ゆっくり行ったら紅葉の絨毯は見ることは出来ない。






鈴虫、松虫の伝説で知られる安楽寺は、浄土宗の寺。




茅葺きの山門が石段の上に見え、楓に彩られる季節はいっそうの風情を添える。


法然の弟子の住蓮坊、安楽坊が開いた念仏道場で、後鳥羽上皇の女房であった鈴虫、松虫がここで密かに出家したことから院の怒りをかい、念仏が禁止され、両僧は死罪、法然は流罪となったという。


のちに住蓮、安楽坊の供養のため2基の五輪が建った。


鈴虫、松虫の供養塔もあり、7月25日のカボチャ供養の際には寺宝が公開される。


住蓮山安楽寺は、浄土宗の開祖法然上人の弟子にあたる住蓮上人・安楽上人にその名前の由来があります。


法然上人は、今からおよそ800年前、建永の法難の際に打ち首の刑に処された両上人の菩提を弔い、またその非業の死を後の世に伝えるため、山号寺号を「住蓮山安楽寺」としたお寺をお作りになりました。


そして1681年(延宝9年)に現在地に本堂が移され、今日にいたっております。


松虫(まつむし)姫(ひめ)・鈴虫(すずむし)姫(ひめ)にまつわる住蓮山安楽寺の縁起。


住蓮山安楽寺は、鎌倉時代の始め浄土宗(じょうどしゅう)元祖(がんそ)法然(ほうねん)上人(しょうにん)の弟子、住蓮房・安楽房が現在地より東1キロメートルのあたりに「鹿ケ谷(ししがたに)草庵(そうあん)」を結んだのが始まりである。


恵心(えしん)僧都(そうず)源信(げんしん)作の座像の阿弥陀如来を本尊として,両上人は法然上人の教えに従い、不断(ふだん)念仏(ねんぶつ)・浄土(じょうど)礼讃(らいさん)を修道していた。


当時の仏教は、貴族仏教とも言われたように権力者や貴族たちだけのものであった。


ところが法然上人は、末法の時代にあって、すべての人は平等であり、すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、念仏仏教が大変な勢いで盛んになった。


法然上人の説く専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)が広まるにつれ、古くからある南都北嶺(なんとほくれい)の仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱すものと決めつけ、教団を黙認するわけにいかず、元久元年(1204)10月、北嶺の僧侶が比叡山の大講堂に集まり、天台座主真性(しんしょう)に念仏を申してはならないとする「専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)停止(ちょうじ)」を訴えた。


これに対し、法然上人は『七(しち)箇条(かじょう)制誡(せいかい)』を門徒たちに示し、念仏の自粛戒慎を守る190名もの門徒の連署を座主に提出した。


これが「元久の法難」である。


翌年9月になると、今度は南都興福寺の僧侶が北嶺の処置は手ぬるいとして、『興福寺(こうふくじ)奏状(そうじょう)』を捧げ、専修念仏の全面(ぜんめん)停止(ちょうじ)を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。


そのような事態の中でも、住蓮房・安楽房は別時(べつじ)念仏会(ねんぶつえ)を開き、両上人を修する浄土(じょうど)礼讃(らいさん)声明(せいめい)に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。


その中に後鳥羽上皇の女官、松虫(まつむし)姫(ひめ)・鈴虫(すずむし)姫(ひめ)がいたのである。


両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛を受けたがために、他の官女の嫉妬も相当なものであった。


おりもおり、建永元年(1206)7月、上皇が紀州熊野へ行幸の際に、一日暇をもらった両姫は、清水寺に参拝し、その帰りすがら「鹿ケ谷草庵」において法然上人の説法を聞き、真の人間解放の道は、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと自覚した。


御所に戻ってからも、法然上人の説法が忘れられず、両姫は密かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て、「鹿ケ谷草庵」を訪れ、住蓮房・安楽房に出家受戒の願いを申し出た。


両上人は、出家するのであれば、上皇の許しが必要とその思いを止まらせた。


しかし、両姫は「哀れ憂きこの世の中のすたり身と 知りつつ捨つる人ぞつれなき」と詠い、決死の出家の願いに両上人も心を動かされ、ついに住蓮房は松虫姫を、安楽房は鈴虫姫を剃髪した。


時に松虫姫は19歳、鈴虫姫は17歳であった。


このことを知った上皇は激怒し、この出来事をひとつの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。


翌建永2年(1207)2月9日、住蓮房を近江国(おうみのくに)馬渕(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)において、安楽房を京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処した。


辞世の詠(うた)を住蓮房は「極楽に生まれむことのうれしさに身をば佛にまかすなりけり」と、安楽房は「今はただ云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏のみ名のほかには」と遺した。


この迫害は、これに止まらず、専修念仏の指揮者である法然上人を75歳の高齢にも拘らず讃岐国(さぬきのくに)(現在の香川県高松市)に流罪にし、弟子の親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)を越後国(えちごのくに)(現在の新潟県直江津市)に流罪の刑に処した。


これを「建永の法難」という。


住蓮房・安楽房の亡き後、「鹿ケ谷草庵」は荒廃したが、流罪地から帰京し然上人が両上人の菩提を弔うために一宇を建立し、「住蓮山安楽寺」と名付け、両上人の追善の寺とした。


その後、幾たびかの荒廃を繰り返したが、延宝9年(1681)に現在地に仏堂が再建され今日にいたっている。












■アクセス


市バス「錦林車庫前」下車徒歩10分


■拝観料 400円


■拝観時間 9:30~16:30 通常非公開


■住所 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段21


■電話番号 075-771-5360












混雑状況等


訪れる人は少ない。


境内は静かで落ち着ける所だが極めて狭い。















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