母の事、そして父の事…いつかは家族の事

他人のために生きた母の事を自分のために綴ろうと始めたブログです。

どこの病院にするか…

2023-01-14 11:52:00 | 日記
手術のできる大きな病院に行くように言われたものの紹介してくれる訳ではなく、こちらで決めたら紹介状を書いてくれるとの事。

ここで姉から言われたのは、治療の間だけでも私が引き取ったらどうかと言う事だった。

上の姉は、離婚しており、子供達も独立し1人暮らしをしていたが、ある事にハマり、そのために本業に加えアルバイトを掛け持ちしていた。そして、時には体調不良の下の姉を遠くの病院に連れて行ったりしていた。多忙を極めていたのだ。そのため、母の事は、実際二の次になっていた。もちろん、月に1度の母の病院には付き添い、買出しもしてくれていたが、私の主人が母に宅配のお弁当を送るようになってからは、あまり顔を出していなかったようだ。

でも、理由はそれだけではなく、姉達は父の連れ子で、母と血が繋がっているのは私だけだった。これが1番大きな理由だと思う。

最後の親孝行だと思って、引き取ってみないかと姉に言われた時、即答できなかった。

母は、数年前に膝を骨折し、家では歩行器を使って歩いていた。実家は、田舎にある昔ながらの和風な家で、段差もなく、歩行器で歩くのに差し支えないくらいの広さがあった。
一方、私が住んでる家は、主人がこだわり建てたもので、お風呂が2階にあり、母を引き取るには大きなネックとなった。リビングもステップフロアになっており、足の不自由な母には住みづらい造りだった。

言葉も大きな壁になっていた。
私の故郷は方言が独特で、主人や子供達は、私の両親が話す言葉が3割程しか理解できなかった。
コロナ禍での入院となると、面会もできない。そんな状況で方言しか話せない母は心細いのではないか。しかも耳が遠い。病院側とコミュニケーションが取れないのではないかと思った。

父の供養の問題もあった。まだ納骨しておらず、父の遺骨は実家にあった。母は、毎日欠かさず、ご飯を炊いて供えていた。

今となっては、どれも言い訳でしかない。私の中にめんどくさいと言う気持ちがあった事、自分に介護ができるだろうかと言う甘えがあった事は事実で、私は本当に最低な娘だ。

それでも、一応、自宅近くの病院もリサーチし決めてはいたのだが、結局、実家のある県の中央部の病院に決めた。
意地になっていた私は、乳癌の治療に関しては私が動くと姉達に宣言した。


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