深見伸介の独学日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

文章練習法

2025-02-06 03:08:30 | 歴史・文章
どうすれば、文章が書けるようになるのか?そんなことを考えながらあれこれ乱読していたら、たまたま読んだ鈴木邦男「行動派のための読書術」(長崎出版 1980年)に文章練習法のようなことが書かれていたので、紹介する。

「うまい文章はまず何度も黙読する。又、時には声を出して読んで、そのリズムをつかむようにする。それだけでは足りない。その上に、その名文を自分も同じように原稿用紙にうつしてみることである。戦前の小説家志望者は原稿用紙に志賀直哉の『城の崎にて』などを一字一字、楷書で書き写して文章の呼吸を学んだといわれている。ただ、読むだけでは分からなかった文章の<生命>が分かるようになるのだろう。写経にも似ている行為である。読経だけではどうしても分からないものを写経によって感じとるのではないだろうか」(115頁)

「書き写す作業をしてみれば全く新しい世界が開ける。ウソだと思うのならばやってみることだ。意味がわかるだけでなく、自分の新しい考えが生まれ、さらに展開されるのである。その書き写してることとは全く別なことでヒントを与えられることもある。読むだけで済むのに、さらに手間ヒマかけて書き写す。時間もかかるし、無駄なことをしているような気がしてくる。しかし、その非合理的な作業の中で精神が統一され、インスピレーションも湧いてくる。これは実際にやってみれば驚くほどである」(116頁)

「ある意味ではこの単調な作業は原稿を書いている時の引用ならば一つの『息抜き』であり、書き写しだけをやっている時は一つのメディテーション(瞑想)である」(116~117頁)

「この原稿を書く参考にと思って、ものを書いて生活している十人ほどに、どうやって文章の練習をしているのか聞いてみた。そして驚いたことには、この『写す』ということが一番多かった。自分の好きな作家の短編を写すとか、あるいは小林秀雄の評論。変わったところでは平泉澄の『少年日本史』を毎日何ページかづつ写しているという人もいた」(117頁)





佐藤忠男 論文をどう書くか

2025-02-05 03:40:49 | 歴史・文章
谷崎潤一郎「文章読本」を読んでいる最中だが、少し寄り道をする。映画評論家、佐藤忠男の「論文をどう書くか」(講談社現代新書)を読む。佐藤忠男も独学者である。彼は、子供の頃に面白いと感じた通俗小説、通俗映画についてこう書く。

「・・・私は『面白さ』というものにはたんなるひまつぶし以上の知的な刺激が含まれているばあいがあるのではないか、そこに積極的にのめりこんでいったことによって、自分は学校の勉強以上の勉強ができたのではないか、ということをいいたかったわけだ。いわば私は『面白さ』という平凡な日常的な言葉にこだわることによって、自分の劣等感を自己肯定に逆転させようと試みていたのだった」(151頁)

佐藤忠男の書く「自分の劣等感」というのは、彼の学歴コンプレックスのことである。現在でも学校教育は、生徒たちに劣等感を植え付けるだけのものになっているのでは?面白い、と思うことにこそ、その人の人生を煌めかせるのもがある。佐藤忠男からのメッセージだ。この本には、福沢諭吉の文体についての考察も書かれていて、勉強になる。

谷崎潤一郎 「文章読本」を読む

2025-02-04 07:02:21 | 歴史・文章
今日は谷崎潤一郎の「文章読本」を読んでみることにする。内容が分かりやすく興味深い本だ。新潮文庫「陰翳礼讃・文章読本」から引用してみる。

「人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、悲しい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分かる。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとか云う手段もありまして、急な、激しい感情を一と息に伝えるのには、そう云う原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かと云うことは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分かります」(125頁)

「われわれはまた、孤独を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも、独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけてくることがあります。それから、他人に話すのでも、自分の云おうとすることを一遍心で云ってみて、然る後口にだすこともあります。普通われわれが英語を話す時は、まず日本語で思い浮かべ、それを頭の中で英語に訳してからしゃべりますが、母国語で話す時でも、むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそう云う風にする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、と云う働きを持っております」(126頁)

谷崎流の言語論、といった文章だ。そのあとには、「・・・思想に纏まりをつけると云う働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります」(126頁)とも書いてある。言葉の弱点を十分に分かっていたのだろう。それにしても、ここまで言葉について深い思索ができる人だとは思っていなかった。




大村益次郎その2

2025-02-04 02:55:42 | 歴史・文章
絲屋寿雄「大村益次郎」を読んでいる。
薩摩側との対立が、その後の大村暗殺につながったのだろう。
明治2年、6月21日から25日までの5日、政府内では兵制改革の議論が行われた。
「・・・大村益次郎と木戸孝允を中心とする長州派は、『農兵を募り親兵とする』国民徴兵制による中央直属の常備軍建設を主張した。彼らはその点について馬関戦争や長州征伐で奇兵隊などの諸隊、足軽や百姓町人の兵士をもってたたかった経験をもっており、徴兵は必ずしも武士におとらないという確信をもっていた。これに対し大久保利通を先頭とする薩摩派は、大村の農兵論に反対で、薩・長・土三藩の精兵を中央に備えることを主張した」(引用・148~149頁)

「数日の論争の結果は大久保派の勝利となった。要するに木戸にしても大久保にしても天皇制独自の軍隊をつくりあげようという方向では完全に一致したが、当面の情勢判断が相違し、諸藩の不平士族を中央の最大の敵とみる木戸・大村派と農民、町人の政府離反、一揆反乱を怖れる岩倉や大久保派の意見の対立がその根底にあった。こうして大村の農兵徴集案は退けられ、まず薩・長・土・三藩の兵から一部を抜いてこれを中央の警備隊とすることになった(その後、肥前藩兵も一大徴集された)」(引用・149~150頁)

「かつては必要とされた長州藩隊のもつ民衆的エネルギーも、中央政府にとっては今は危険な存在となり、早晩ふるいにかけて精選される必要があった。新政府は倒幕にあたっては農民の解放者の如くふるまい、その革命的エネルギーを利用はしたが、もとより農民の味方ではなかった。倒幕の功労者をもって自負する長州藩隊の兵士たちは、今や彼らの期待に反したばかりでなく彼らの特権さえもうばおうとする維新政府の存在を彼らの危険物と見なして反発した。大村暗殺の原因も、長州諸隊の反乱の要因もすでにここに胚胎していた」(引用・151頁)





大村益次郎

2025-02-03 17:05:48 | 歴史・文章
礫川全次さんの著書「独学の冒険」の第6章には、独学者にすすめる100冊の本が紹介されている。その100冊のなかから、絲屋寿雄「大村益次郎」(中公新書 1971年)を読む。国会図書館デジタルコレクションを利用した。
考えてみれば、大村は謎の人物である。日本陸軍の基礎を作った人であるのに、西郷隆盛や大久保利通と比較すると、地味な印象がある。日本史の教科書でも目立たない印象だ。

さて、絲屋寿雄「大村益次郎」によると、彰義隊戦争に突入する前におこなわれた軍議で、大村は薩摩側の参謀、海江田信義と激論を繰り広げたようである。兵が足らぬ、と主張する海江田に対し、大村は「いや決して其様な御心配はない。是で充分戦さの出来ぬことはない。益次郎御請合申します」(引用・131頁)と答える。よほど自分の戦略に自信があったのだろう。喧嘩のような激論だったらしいが結局、西郷が大村に指揮を任せると判断し、彰義隊討伐は行われる。

だがその軍議の前に、実は大村と西郷は衝突していたのだ。
西郷だけには事前に、今回の作戦の事を大村は知らせていた。薩兵を皆ごろしにする気か、と言う西郷に対し、「・・・大村は静かに扇子をあげとじしながら天を仰いで無言のままであった。しばらくして『左様』と答えたので、西郷は無言のまま退いたといわれている」(引用・132頁)