晩年の吉本隆明が、国家の最小単位は「3人」である、と確か書いていた。どの著作だったかは忘れてしまったが。その「3人」とは、言うまでもなく家族である。父親・母親・子供。一番ちいさな国家は、家族であると考えてもよい。国家である以上、そこには権力が生まれる。父親・母親という名前の政治家が誕生する。子供は民衆である。ただ、親の性質によって、子供の在り方は異なるだろう。自由を与えられた「市民」として扱って貰える子供もいるだろうし、正反対に、親に徹底的に奉仕させられる「臣民」という立場の子供もいるだろう。「臣民」にされてしまった子供は、どう抵抗すればよいのか?不良少年になってみたところで、別な権力(学校・警察など)に抑圧されてしまうに違いない。
吉本隆明「共同幻想論」を先日、読了した。興味深い本ある。文体も思想も魅力的だ。しかし、人は何故権力を欲するのか?については、吉本の口からは明確に語られていなかったような気がする。人を支配したい、というのは人間の本能なのであろうか。家族に話を戻すと、家族間には愛というものもあるはずである。国家には、市民(臣民)に対する愛など存在しない。そう考えると、家族と国家というものを単純に結びつけるという訳にもいかないか?これは、難しい問題である。
先日、永山則夫についての書籍を図書館で読んだ。彼はまず、「家族」という共同幻想から排除され、ついには犯罪を犯し、最後には「国家」という共同幻想によって抹殺されてしまった。月並みな言い方だが、「家族」からの愛があれば永山則夫は長命できたかもしれない。
自分も「人間は働くべきである」という共同幻想によって、体を壊し、今に至っているが、共同幻想による排除を無くすためには、どうすればよいのか?容易に答えの出ない問題に今、ぶち当たっている。