どうも私は、疎外感のあるキャラクターに引かれるようだ。
『ダ・ヴィンチ・コード』の修道僧シラスと『城』の測量師Kは、
禁欲主義と女好きというまるで正反対の性向を示しているけれど、
属する社会から疎まれる存在であるという点では似たもの同士だ。
疎外感は、シラスに自分を幽霊だと思わせ、
Kには、あくまでも測量師としての本領を発揮すべく、
頑なに城への道を歩ませるとともに、女性にはなびきやすくさせている。
もっとも、Kの場合、疎外されていることをなんとも思っていないようだけど。
どちらのキャラも手放しで「好き!」とは言えないが、決して嫌いではない。
小説や漫画などで特定のキャラを好ましく思う理由には、
大きく分けて次の三つがあると思う。
・「好き」に理由はない
・自分にはないものを持っているから好き
・自分と似ているから好き
一つ目は「無償の愛」と呼べると思う。
親が子を思うように、とにかくそのキャラが好きなのであり、
キャラの短所によってその気持ちが揺らぐようなことはない。
二つ目は「憧れ」。
これが嵩じると、「恋」と「崇拝」に分かれると思う。
自分にないものを欲し、キャラに近づきたくなるのが「恋」、
キャラと自分の間に一線を引いて奉るのが「崇拝」だ。
三つ目は「親近感」。
自己愛が投影された結果なのかもしれないけど、
自分と似ていれば理解しやすいので、その分だけ親しみやすく、
似ているものが短所とみなしているものであれば、なおさら親しみやすい。
私がシラスやKに抱く気持ちは、この中では「親近感」が最も近い。
とすれば、私も疎外感を抱いているということになる。
本当にそうなのだろうか?
疎外感というより「無所属感」と言ったほうが近い気がする。
どこかに所属していることを自覚できないでいるだけなのかもしれないけど、
常に流離っている、漂泊している、そういう気持ちが私の中にあるのだ。
時には自分の規範で行動する――そのリスクは十分承知している。
これって、英語でいうなら"outsider"か?
なんだか急にカッコよくなったな(笑)
(次を読む)
『ダ・ヴィンチ・コード』の修道僧シラスと『城』の測量師Kは、
禁欲主義と女好きというまるで正反対の性向を示しているけれど、
属する社会から疎まれる存在であるという点では似たもの同士だ。
疎外感は、シラスに自分を幽霊だと思わせ、
Kには、あくまでも測量師としての本領を発揮すべく、
頑なに城への道を歩ませるとともに、女性にはなびきやすくさせている。
もっとも、Kの場合、疎外されていることをなんとも思っていないようだけど。
どちらのキャラも手放しで「好き!」とは言えないが、決して嫌いではない。
小説や漫画などで特定のキャラを好ましく思う理由には、
大きく分けて次の三つがあると思う。
・「好き」に理由はない
・自分にはないものを持っているから好き
・自分と似ているから好き
一つ目は「無償の愛」と呼べると思う。
親が子を思うように、とにかくそのキャラが好きなのであり、
キャラの短所によってその気持ちが揺らぐようなことはない。
二つ目は「憧れ」。
これが嵩じると、「恋」と「崇拝」に分かれると思う。
自分にないものを欲し、キャラに近づきたくなるのが「恋」、
キャラと自分の間に一線を引いて奉るのが「崇拝」だ。
三つ目は「親近感」。
自己愛が投影された結果なのかもしれないけど、
自分と似ていれば理解しやすいので、その分だけ親しみやすく、
似ているものが短所とみなしているものであれば、なおさら親しみやすい。
私がシラスやKに抱く気持ちは、この中では「親近感」が最も近い。
とすれば、私も疎外感を抱いているということになる。
本当にそうなのだろうか?
疎外感というより「無所属感」と言ったほうが近い気がする。
どこかに所属していることを自覚できないでいるだけなのかもしれないけど、
常に流離っている、漂泊している、そういう気持ちが私の中にあるのだ。
時には自分の規範で行動する――そのリスクは十分承知している。
これって、英語でいうなら"outsider"か?
なんだか急にカッコよくなったな(笑)
(次を読む)
だと思いますが、
>どこかに所属していることを自覚できないでいる
とりあえず、さいたま県民
なんだか急に・・・・・\(`_´")バシッバシッ
でも、テレビはいっぱい映るもんね!(なんのこっちゃ)