兄も、姉も、気になるのか、覗きに来た。その後ろから、お母さん。「お父さん、ごめんなさい。」鞄を受け取りながら。「どうしても、離さないもんだから。」お父さん「うーんっ」返事かない。
父は、母が、極度の犬恐怖症で嫌いなのは、知っていたと思う。だから、自身が、世話をしなければならなくなることも知っていた。自分の頭を撫でながら、「さあ、先にご飯にしよう。」父は、自身の書斎に行き、着替えてくる。皆は、先に、母が準備をした食卓につく。父も、入ってくる。腰を下ろすと「頂きます!」みんなで。箸を持ちながら、父。自分を見下ろす。心配気に、俯き気味の自分。「後で、考えるから。」と。「さあ、食べよう。」
食後の団欒になった。皆で、お茶を飲みながら。甘いものを食べていたと思う。何しろ、父は、大の甘党。代わりに、タバコは吸うが、お酒は、まったくダメ。親戚の集まりなどでは、一口、口をつけると、直ぐに寝たふり。「とにかく、おしっこだな、と」父が、皆を前に、自分に話しかけた。「それが、出来ないなら、うちでは、飼えない。」「こんなちっちゃいから、まさか直ぐに庭では飼えない。」「お父さんが、しつけてみるけど。」「まあ、それからだな。」と。やったあっ!
父は、やはり犬は、嫌いでも、苦手でもなかったようだった。ただ、犬を飼ったとか、他人の犬でも可愛がったとか。そんな話も、聞いたことは、なかった。近所にも、犬を飼っている家はあったが、そのうちと、仕事がある父が特別に交流がある訳ではない。母は、近所付き合いはする方だったが、犬のいる家は、苦手だから、付き合いは薄い。父が、学校の同僚に犬の飼い方を聞いたなどと言う話も、聞かなかった。その時代には、犬の飼い方のようなハウツー本などは、まったくなかった。だから、まあ、父は、あやふやな知識で犬を飼ってみようと思っていたのかも知れない。拾ってきた子犬を、取り敢えず認めてくれた父に、子どもの自分が、あれこれ言うなど思いもよらないし、言えなかった。もちろん、海辺の住宅地には、犬や猫を飼っている家はあったが、現代より少なかったと思う。野良犬や野良猫は、今よりずっと多かったが。それで、親しい友だちにも、犬を飼っている家などなく、自分も何処からか、飼い方聞いてくるなど、そもそも出来なかった。そんな、父や自分をはじめ、家族は、犬に対して、まったく無知なまま、飼おうとしていたのだ。
父は、その当日か、翌日に、自宅の庭から、海岸段丘の砂地の土を、子犬の箱に入れて、そこに、排便をさせるつもりのようだった。これは、馬鹿げた話で、世間的には、インテリと言えた父が、何故、そんなことをしたのか、今でも分からない。犬は、とても清潔好きな動物だから、決して、自分の寝床などでは、排便しない。子犬は、多少家の中を徘徊したが、結構、木箱の中で、大人しくしていたと思う。
餌は、家族の食事を、分けたと思う。ペットフードなど、まだ無かった時代だ。何しろ、その十年ちょっと前迄は、戦中、戦後の食糧難時代で、下手をすると、人間が、草はもとより、木の根も齧ったと言う時代だ。庶民レベルで、犬の餌をどうこうなどと言う時代では無かった。
ごはんに、みそ汁などを掛けて、柔らかくして、与えたのだと思う。小さい餌椀に用意するまでは、さすがに母が準備した。与えるのは、父だ。自分は、そばで眺めていた。子犬は、ちゃんと食べていた記憶がある。後々、思えば、子犬に食べ易い食事だったとは、思えない。しかし、子犬は、小さかったが、意外と生後の月数は、重ねていたのかも知れない。
子犬は、箱に大人しくしている時間帯もあったが、やはり、うろちょろもする。それも、ちょっと、したいのかな、と素振りで分かる時がある。そんな状態で、玄関土間から、家に上がり込んで、うろちょろする。当然、自分も気付けば、捕まえて、抱っこして、木箱に戻すが。木箱は、子犬にとっては、我が家で、自分の居間で、寝床なのだから。する筈などない。また、うろちょろ、と。当然、父の出番となる。父は、木箱に戻して、子犬に、「ほらっ、しなさい。」とか、言って、優しく、叱責していたかも知れない。何度でも、しつこく繰り返し。でも、当然、犬らしく清潔好きな子犬が、自分の寝床で、する訳がない。だいたい、叱責って、子犬は、人間の言葉はもちろん、身振り、手振りでさえ、分かる筈もない。それを、父は、優し気ではあるが、子どもの心など分かろうともせず、決まりを、押し付けがましく強要する小学校教諭丸出しに、子犬を、叱り続けた。大人になった自分は、父のちょっとした社会的地位にも、遠く及べなかったが、こんな愚かなことを、飼い犬に押し付けることなどなかった。ハウツー本などいくらでも得られるし、ペット用品もいくらでも得られる時代に、飼い主になった自分が言えることでも無いが。
結局、子犬は、我慢し切れず、玄関土間で、するか、彼にしては、寝床からもっと遠くて、好ましい場所である、家の中に、してしまった。家族の隙を突いて。そんなことが、ずっと続いた。母しかいない昼間には、犬に触らない母は、放置していて、勝手に何処にでもさせて、跡を始末していたのだろう。そんなことが、一週間も、続いてしまった。
自分も、何だか、気が重くなっていた。焦っていた。どうトイレを教えて良いのかなど、分からないし。父は、だんだん様子が厳しくなっていた。叱り方も、ちょっと声を荒げて。結構、最初の頃から、しつけの期限は、一週間だと、父に言われてしまっていた。出来なければ、飼い続けるのは、無理だとも。子犬が、いつまで経っても覚えないと、「この犬は、賢くない。家犬に、向かない。」と迄、言い始めた。
さすがに、幼く、我儘な自分でも,追い詰められていることは、分かった。自分と子犬が。そう言えば、ぽちって、名付けていたと思う。自分が物心つくか、どうかの時代に、引っ越す前の古い家で飼っていたのが、猫で、たま。だから、犬は、ぽち。もちろん、その時代でも、大定番の名前。今でも、テレビ番組のタイトルになっていたりするが。でも、子どもの自分には、険しくなる父の顔を見ても。何も、出来ない。何の知恵も、湧かない。どうすることも、出来なくて。学校から帰ると、粗相の始末をするとか。それで、あとは、抱きしめるだけ。本当に、この子は、賢くない犬なのかな。どうしたら、良いんだろう。どうしたら、このまま、飼ってもらえるんだろう… もちろん、後年、ぽちが、愚かだったのではない。愚かだったのは、自分と父だったのだと気付くことになるのだが。この時には、暗い未来が近づいてくることに、焦りと悲しみで、ひたすらいっぱいになってしまっていた。
そして、とうとうその日が来てしまった。一週間が経ってしまった。今から思えば、何でたった一週間だったんだろうと、思うが。その日、夕食後、父の書斎に一人呼ばれた。「あの子は,無理だな。」と。分かっていたが。「まったく覚えられないんだから、仕方がない。」と。「お前が、拾ってきたんだから。お前が、捨ててきなさい。」と… もう、アタマは、真っ白だった。冷たく、突き放すような、普段の甘い父とは違う視線。言葉は、返せなかったと思う。すごすごと、父の書斎を出て、その前の玄関土間の木箱に佇むぽちを、抱きしめることしか、出来なかった…
父は、その頃か,その少し後に、戦後廃止されていた修身に変わる道徳教育の研究指定校になった勤務する小学校で、研究主任となり、全国発表もした。そして、県の教育主事に栄転して、ある程度の将来が約束された人だった。そのあと、心臓発作で、若くして、急死してしまったが。ろくな出世も出来ずに、しがない会社員生活を終えて、晩年になっている自分と比べれば、社会的には、早逝したとは言え、余程、成功者で、人格を評価された人だったのだろう。えっ?人格⁉︎と、成人した自分、更に、この高齢者になった自分は、思うのだ。教師で、現場の道徳教育の研究者だった人だよ。幼い我が子に、犬を捨ててこい、と。そんなこと言うのか。自分は、父親としては,結構な失格者だが,そんな非道なことを言ったことはない。多分、甘やかし過ぎて、我儘に育ちそうになっている息子に、自分でしでかしたことは、自分で始末つけなければならない。その責任を、教えるつもりだったのだろう。しかし、戦後民主主義教育の体現者のような思想を持ち、道徳教育の現場を、主導して研究した人間が,それで良いのか、と。そんな父親の存在を、繰り返し否定するようになった、成人してからの自分の苦い思いを、止めどもなく、思い返していた。今日は、ちょっと薄曇りで、せっかくの春の陽光は遮られていて、花々が咲く庭は、少し暗い…