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日記、日々の想い 

聖火リレーか。分断…

 何だかなあ。Jビレッジで、聖火リレーの出発式のセレモニーを、やっていた。それを、テレビで、見た。何だかなあ…
 まったく、興味を、失ってしまっている自分が、いる。反対な、訳じゃない。ただ、どうしても、やって欲しい気持ちには、もうなれなくなってしまっている自分が、いる。
 小学生だった頃の五輪。教室に、テレビが、持ち込まれた。授業を、潰して迄、選手の活躍を、見せて貰った。あの、夢の祭典。今度も、もの凄く、楽しみにしていた。
 このコロナ禍が… 自分は、子どもの頃、身体が弱くて、引け目があって、運動部には、入らなかった。だから、子どもの頃は、スポーツの結構な花形だった妻や息子たちとは、スポーツとの距離感が違う。しかし、花形に憧れる気持ちは、かえって強くて、結構な見るファンだ。
 ファンクラブに入るとか、面倒なことは、嫌い。ただ、一人で、とか。家族で、一緒にもある。ひっそりと、でも熱く盛り上がる、隠れ見るファン。そんな自分なのに、もう、気持ちが、切れてしまった。
 恐らく、多くの人たちが、もう出来ないと思っている。或いは、延期とか。更に、そうな風に、なって欲しいと思っている人たちが、多いこと。なるべきだとさえ、思っている人たちもいることは、感じている。そのことが、自分にも、強く感じられて、見たい気持ちを、萎えさせてしまったように、思える。
 福島の出発式典は、復興どころか、復旧の見通しさえまったく立たないはずの地元の方々が、熱くセレモニーに、参加されていた。太鼓とか、熱く。復興五輪の筈だったのに。廃炉の先行きは、不透明なまま。自分も、恩恵に浴していた、その原発。人類が、絶滅する迄に、間に合うのかな、とさえ思ってしまう。多くの人々が、帰ることも叶っていないその地元を、必死に盛り上げようとする人々。一方、避難先で、コロナ禍の中、それどころではないだろう人々も。そして、多くの自分のように、関心を失ってしまった人々。
 これは、新しい分断。重層的で、始末に負えない分断社会に、また、新たな分断が、生まれるのかな。世代、性別、地域、貧富。国籍も。みんな違って、折り合えない。そんな拗れ切った分断に、新たな分断が、加わるのかな。気持ちが、重い。
 あの子どもの頃の五輪の頃は、みんな、結構、同じ方向を向いていた。みんな、貧しくて、もっと豊かになりたくて、競い合ったり、争ったりもしていたけど。もっと、問題は、単純で。争うにしても、同じ方向を向きながら、争っていたように思えた。だから、応援する気持ちが、熱く、一つになれた。でも、今は。みんな、ばらばら…
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