多摩爺の「時のつれづれ(葉月の41)」
終戦の日、父を偲んで・・・
早朝、紀伊半島に上陸した大型台風は、
そのままの勢力を保ったまま、近畿地方を縦断して、日本海に抜けるとの予報が出ている。
今日(8月15日)は、78回目の「終戦の日」であり、先祖を迎えて供養するお盆だというのに、
連日続いた炎暑から間髪を入れずに台風だから・・・ 私だったら少しは遠慮するものの、
ここんとこヤンチャが過ぎる気候は、我が儘のし放題で、情けも容赦もないらしい。
戦争ほど悲惨なものはない。
それを忘れないために、毎年この時期になると、
メディア各局は、先の大戦に関する特集やドラマを放映している。
戦争を知る世代が、年を追って少なくなってきているなか、
今夏69歳になった私のような、戦争を知らない世代も、それなりに齢を重ねてきており、
不謹慎だとのお叱りを受けるかもしれないが・・・ 戦争経験のない者が、
戦争に関する特集を毎年見るのは、いささか退屈であり、難儀になってきている。
とはいえ、毎年この時期になると、やらねばならない役割があるから気が抜けない。
それは、話し方や説明が上手い下手を抜きにして、知識の浅薄をさておいてでも、
孫や子に戦争の悲惨さと、不戦の誓いを伝える・・・ 語り部にならねばならないことである。
この時期の、この役割だけは・・・ うっかりが許されないのだ。
家族で一緒に、先の大戦の特集を見て、記憶の引き出しにキチンと整理すると、
子や孫に戦争の悲惨さが理解できる程度に・・・ 事実を丁寧に伝えるとともに、
平和と不戦を誓うことは、世代が変わろうと、この国に生まれた者の責務ではなかろうか?
前もって触れていたが・・・ 終戦の日は、自宅に先祖を迎えて供養する「お盆」でもある。
一昨年亡くなった父や義父母の三回忌を、5月に済ませているとはいえ、
お盆のこの時期に帰郷できず、このタイミングでお墓参りができなかったことを思えば、
なんとなく・・・ 後ろめたい気がしないでもない。
先週末、テレビ朝日で「人間魚雷回天」の特集をやっていたので、女房と一緒に見ていたが、
ふと思いだしたのは・・・ 私がまだ小学生(昭和三十年代)だったころ、
父はご機嫌になると、風呂の中で軍歌を口ずさむことがあった。
十八番(おはこ)は「若鷲の歌」、そして・・・ 「ああ回天」も何度か聞いていた。
流行歌じゃないのは分かってたので、近所に聞こえちゃ拙いかもと心配してたが、
体を洗った後に、頭にタオルを乗せ、肩まで湯船に浸かって、かなり外れた音程だったが、
1番を1曲だけ唸って、風呂からあがるのが・・・ 父のルーティンだった。
恥ずかしいと思ったのか・・・ それとも、さすがに軍歌は拙いと思ったのか、
その真意は分からないが、中学生か、高校生のころには聞かなくなっていたので、
すっかり記憶から飛んでいたが・・・ 父は確かに軍歌を歌っていた。
私事で思い出すのは、もう20年以上も昔のことになるが、
福岡に出張したとき、地元の先輩から面白いところに連れてってやると言われて、
軍歌オンリーで、コスプレをして歌う、
中州にあるカラオケスナックに連れて行かれたことがあった。
そのカラオケスナックが、いまもあるかどうかは分からないが、
記憶が確かなら「アンカー」という店名だったと思うが・・・ 自信はない。
先輩からなにか歌えと言われたが、知ってる歌がないので戸惑っていると、
山口出身だから「ああ回天」だなと言われると・・・ 即座にリクエストされ、
断ることが出来ないまま、聞き覚えのある父の音程で、
歌詞が映し出されている画面を見ながら・・・ 恥ずかしながら歌ったことがあった。
いまさらだが・・・ 「同期の桜」で知られる神風特攻隊は、
鹿児島県の鹿屋に基地があったと記憶してるが、
テレビで特集されていた、海の特攻隊とも云われてる人間魚雷回天は、
山口県の徳山(現在の周南市)の沖に浮かぶ大津島に、訓練施設と基地があった。
基地の仕組みや、隊員が残した手紙、出撃命令がでずに残られた方へのインタビューなど、
その詳細がこのタイミングで放映されていたんだから、これもなにかの縁かもしれない。
そう言えば・・・ 3年前、朝ドラ「エール」で、
古関裕而さんが「若鷲の歌」を作曲されたことを目にし、ちょっと懐かしかったもんだから、
オヤジの十八番(おはこ)という表題で、ブログを書いていたので、
今日はその記事を紹介させてもらって、終戦の日とお盆を静かに過ごしたいと思う。
父は、当時まだ存命だったが・・・ コロナ禍に陥り、皆が行動を自粛しており、
帰郷が叶わなかったなか、翌春静かに霊山へと旅だっている。
「オヤジの十八番(おはこ)」を紹介させてもらうので、読んでいただければありがたいが、
戦争を知らない世代が、生意気なことを言うのを勘弁してもらえるなら、
軍歌なんて・・・ ホントは大嫌いである。
とはいえ、気持ちは複雑で、
こういった歌が、二度と作られないよう、歌われないようにと願いたいとの思いが半分あって、
父の大事な記憶の一つとして、大事にせねばならないとの思いも半分あるので、
本当に嫌いなのかと問われれば・・・ その返答に窮してしまう。
そんな思いを胸に秘めながら・・・ 今日一日は、
平和と不戦を誓い、ご先祖さまに感謝し、台風の被害が限りなく小さくて済むよう、
心静かに祈念して過ごそうと思う。
あたたかい励ましを頂戴し、ありがとうございました。
まだまだですね、もっともっと頑張ります。
全く同じような父の思い出です。亡くなる迄毎年の様に、軍隊時代の旅行を兼ねた集まりに参加していました。反発を覚えたり、理解も出来たりの複雑な感情でした。とにかく、平和を祈り、犠牲者を悼む気持ちは絶対忘れません。なおとも
先の大戦を経験した人々からしたら、戦後生まれの者には理解しがたい、体を張った魂を揺さぶる思いがあったのだと思います。
戦争をしちゃダメだとの一点でわかり合えていれば、それで良いと思っていたので、あえて父と議論するようなことはありませんでした。
あとは我々の世代が、次を担う世代になにを伝えていくのか・・・ それだけだと思っています。
でも山の手の大空襲の時に我が家を含めて4件だけ焼け残ったそうです
それで祖母も母も皆さんに井戸水を提供したらガラッと態度が変わったそうです。
人々も心がギスギスしていたのですね
無線担当ですか。
機密情報を扱う大変なお仕事で、相当にストレスが溜まっていたのではと推察します。
ワイロだなんて、とんでもない陰口ですね。
仕方がないとは言え、皆が本音(家の中)と建て前(屋外)の狭間で苦悩しながら、生きぬいたのだと思います。
勿論、軍隊生活は悲惨だったらしい・・・
母から聞いた話ですが。
義父(サメ父)の支那事変の勲章が二つ、サメ家に飾ってあります。
くちこ父も、サメ父も、そして自衛隊員だったサメ氏も通信兵だったらしい・・・
勿論、くちこも平和主義者、断固戦争回避思想ですが、
八月になったら毎年連日放送される戦争の語り部的番組。
これは・・・もう、勘弁してほしい。
心がね、落ちてしまう。
それだけ精神力が弱っているのかも。
伯父は、毎年、徳山の回天慰霊祭に列席していました。
それが生き残った者の義務だと言って。
帰りによく、我が家へ。
あんな戦争、もうしてはいけない、
以前の問題として、
不可能ですよね。
今の世相を見ると。
ただ、自衛隊幹部の同期会に行くとね、
常に防衛は動いていることを痛感します。
サメ氏なんて、竹島に住もうと言っています。
人間のサガですかね。
戦争は・・・
と、
訳のわからないコメントですみません。
いまのロシアや、中国を見てみれば、話せば分かるなんてことはあり得ないと思っているので、
自衛隊の存在にも、予算の拡充にも、私は比較的寛容な考えを持っています。
ただ、さすがに・・・ OBの方の竹島移住は、再考されてほうが宜しいかと思います。
羽交い締めをしてでも、引き留めることをお薦めします。