多摩爺の「時のつれづれ(葉月の54)」
法律は性善説、社会は性悪説
野次馬気分で、もの申すことではないと思うものの、
関西地方の自治体トップに関する、パワハラやおねだりの報道が後を絶たない。
また、終ったばかりのパリオリンピックで、残念ながらメダルを逃した選手に向けて、
SNSでの誹謗中傷が・・・ 依然として続いているらしい。
二つの話題は、全くもって似て非なるものの、一つだけ共通していることがあるとすれば、
自治体のトップに関しては、百条委員会なるものが設置され、淡々と審議が進められているが、
オリンピアンに向けての誹謗中傷は、注意喚起だけで法廷には持ち込まれておらず、
ともに大きな話題を提供してはいるが、どちらも法の裁きは受けてないということになる。
なにが言いたいのかというと・・・ 早とちりかもしれないが、
法治国家であるはずの、この国のメディアや、雑誌を含むネット民までもが、
お隣の半島にかぶれてしまったかのように、人治国家になりかけてきたことである。
「疑わしきは罰せず。」が、法治国家の基本であって、常識だと学んだが、
ここ最近、巷で起こってる多くの出来事は、
ワイドショーやゴシップ週刊誌を通して印象づけが進み、SNSが拍車を掛けて煽りまくり、
法律は性善説にも拘らず、社会は性悪説で成り立ってるように見えるが・・・ 思い過ごしだろうか?
百歩譲って刑事事件なら、社会正義に自戒を求める意味合いから、性善説はやむ得ないとも思うが、
問題されている民事案件は、メディアの言ってることは、たぶんそうなんだと思いつつも、
メディアやSNSの誘引に相乗りして、野次馬が面白おかしく裁く私刑が許されるのであれば、
真実や、事の本質はどこかに追いやられ、大きな声がする方向に誘引されてしまうと危惧している。
ワイドショーや、雑誌などによる情報提供がいま、
情報提供から逸脱して、思惑を持った誘引に変貌してないだろうか?
来月行われる予定の、自民党の総裁選挙においてもしかりだ。
野党とメディアは、天下国家のことはさておき、この期に及んでも政治と金の問題を争点にしている。
修正申告を行った議員に、当局が捜査に入ったのなら別だが、
その後なにもないのに・・・ いまだに裏金議員とのレッテルを貼り続けている。
総ての議員がシロで、クロの議員はいなかったなんて思ってないし、
その後のなり行きに、ホッとしている議員もおそらくいるだろう。
法律を改正し、修正申告を行ったことで、
総てが綺麗サッパリ片づいたなんて、全くもって思ってないものの、
残念ながら・・・ ザル法であっても、法律は法律である。
そう捉えれば・・・ 執拗にレッテル貼りを続けることが、
考え方があまいと言われれば、それに反論する術を持ち合わせてないが、
これこそが、法律よりも感情を優先する、
人治国家的な発想そのものだと思うが・・・ 間違っているだろうか?
報道という名の表現の自由は・・・ いまや司法、立法、行政の三権に次ぐ、
第四の権力となっただけでなく、SNSという生活に馴染んでしまったツールに悪乗りし、
顔が見えないことを良いことに、意図的に使い方を誤り、
弱虫たちが罵詈雑言で跋扈する、巨大な暴力ツールになったと思うが・・・ 如何なものだろうか?
古い話で恐縮だが・・・ いまも蟠りを持ってる事案の一つに、
歌舞伎役者のスキャンダル記事を苦にした両親が自殺し、
歌舞伎役者本人も、自殺幇助の罪に問われ、すでに結審した刑事事件があった。
残念なのは・・・ 刑事事件は決着をみたものの、
二人の人間を死に至らしめ、一人の有能な役者を葬り去るほどの記事については、
その内容についての是非が、有耶無耶にされたままであり、
社会正義を問うべき民事案件として、論じられた形跡は影も形も残っていない。
良いんだろうか・・・ こんなことで、
表現の自由は良いとしても、自分で自分の尻すら拭けないで・・・ ホントに良いんだろうか?
こういった事の本質が、公に論じられないままになっている。
この議論を総括しない限り、メディアは同じような失敗を、いつかまた繰り返すことになるだろう。
事の善悪のみならず、周辺への影響などについて、
自らの頭で熟慮することなく、
言いっぱなしの他人の声に、安易に同調してないだろうか?
拘る必要がない、どうでも良いことなのかもしれないが、
この国では、法律(刑事罰)は、性善説なのに、
一般的な社会の目(民事案件)は、性悪説のような気がしている。
そんなもんだと言われれば、返す言葉もないが・・・ なんかそこが引っかかっている。
大仰な表題を掲げて、どこを探してもオチが見つからない、
くどい割に、尻切れトンボのような文章を綴ってしまい、いささか恥ずかしいが、
本文はあくまでも個人的な思いであって、
コメントを頂戴しても、議論するつもりはないので、ご理解いただければありがたい。