音楽評論家の久道りょうさんが、Kiinaの「オリジナルコレクションVol.3〜ロック&ポップス&バラードの世界」から、最初の10曲のレビューを書いてくださっています。
詳細は有料のnoteになります。
https://ameblo.jp/vocalreview/entry-12810812289.html
Kiinaのポップスを聴きこんで、専門家の立場から分析・解説してくださっていることももちろんですが、広い意味で発言に影響力を持つ方がKiinaに関心を持ってKiinaのことを発信してくださることに、とても感謝しています。
どなたが書いていらしたのだか、湯川先生だったようにも思いますが自信がありませんが、評論というのは自分が好きなもの、関心のあるものを書くのだと。
そんな文章を読んだことがあります。
10年ほど前になりますが、Yahoo掲示板の頃に何人もの執拗な悪意ある書きこみに(管理人がいなかったので、サイトは荒らし放題でした)ほとほと嫌気がさして「もうやめようかな?」と思ったことがありました。
その時、何故か頭のてっぺんのもっと上の方から「小林秀雄の『モオツァルト』」という声が聴こえてきました。
それは「読め」ということ?
小林秀雄の本は、高校時代の現国の「無常ということ」に「さっぱり分からん…」とサジを投げた記憶しかありません。
でもまあ、「モオツァルト」を読んでみましょう。
読んでみて、と言ってもやっぱり難しいことばかり書いてありましたが、私なりに理解できたことがひとつだけありました。
「小林秀雄は何十ページも費やして『僕はモーツァルトが好きだ!』と言っているだけだ」ということです。
知の巨人のような人が、あらゆる角度からモーツァルトの曲を分析しあらゆる言葉を駆使して「モーツァルトが好き!」と、モーツァルト愛を叫んでいる。それが評論というものの原点なんだなぁと。
なぁんだ。
私はきよしくんが好きだから、「きよしくんが好きです」と書いてる。私に何の繋がりもない人が悪口を書こうと嘲笑おうと、私には関係ないこと。
あの時、小林秀雄が私をKiinaの世界に引き戻してくれました。
「好き」という気持ちがすべて、それさえあれば怖いものはないんだと。
「ジェジュンが好き」を貫いてこられた久道さんは、もっともっと大変な経験を沢山されたことでしょう。
何があっても決してブレることのない姿勢は、推し活のお手本です。
「ロック&ポップス&バラードの世界」への次のレビューも楽しみにしています。
今日は仕事は休み。「あさイチ」の台所特集に刺激を受けて台所を大掃除してから、自室で(Kiinaの写真に囲まれて)「きよしこの夜Vol.22」のDVDを観ながら(何回め?)、おんなじシーンで西さんのトークに貰い泣きし(何回め?)、Kiinaのメッセージに涙し(何回め?笑)、他に何も要らない穏やかで幸せな一日でした。