※青い背広で〜1937年(昭和12年):KIINA.2005年
https://m.youtube.com/watch?v=-dxS9_srdy0
「青い背広で」は昭和12年、藤山一郎さんの歌唱で発売されました。
この前年2月には一部陸軍将校による反乱、いわゆる「2・26事件」が勃発、中国北部での単発的衝突も途切れることはありませんでしたが、多くの国民は(軍の中枢すらも)「まさか大きな戦争になることはあるまい。程なく強い日本軍が中国を押さえつけるはず」と信じ、この頃軍需特需によって回復していた好景気を謳歌していました。
双葉山は69連勝に向かって爆進中、また朝日新聞社が初めて国産飛行機「神風号」をロンドンまで飛ばし、日本中が世界初の大陸横断飛行という快挙に熱狂したそうです。
「青い背広で」にはそんな平和な日常、青春を謳歌する若者の空気が満ちています。戦争の影すらも見えません。
実際にはこの年の7月に中国北部で勃発した盧溝橋事件から日本と中国は全面戦争へ、昭和20年8月まで8年にも及ぶ長い長い日中戦争の泥沼の道をたどることになりました。この歌の若者もきっと召集されて戦地へ赴いたことでしょう。
今の平和な状況から80年前のこの時代を振り返ってみて、「どうして引き返せなかったのか」「あの時判断を誤らなければ」と批判することは簡単ですが、その時その時に冷静な状況判断をすることがいかに難しいことか。日本だけでなくどんな国の失敗の歴史もそれを物語っているように思います。
歴史を専門的に勉強した端くれとしてこの戦争を考える時に思うのは、「決して間違えてはいけないのは、"戦争に負けたこと"を反省するのではなく"戦争を起こしたこと"を反省するのでなくては、また同じ失敗を繰り返してしまう怖れがある」ということです。
戦争のない国で生まれ育った私たちには、次の世代にもこの国を平和なままに引き継ぐ責務があることを決して忘れてはならないと思います。
もちろん、それが日本だけでなく世界中がそうであることを願って止みませんが。
「青い背広で」は、KIINA.のカバー曲の中でも私が特に好きな一曲です。まさに「若い僕らの命の春」そのもののように一点の曇りもない澄み切ったKIINA.の歌声が、美しければ美しいほど胸が締めつけられるのは、この歌の背後に戦争の影を感じてしまうからかもしれません。
さて、「青い背広で」を歌われた藤山一郎さんは1933年に東京音楽学校を首席で卒業されました。在学中に「酒は涙か溜息か」などの大ヒットを飛ばし、また正統派のクラシック歌手としても将来を嘱望されていましたが、ご実家が商売の失敗から多額の負債を抱えていたこともあり、歌謡曲歌手としてレコード会社と契約されました。
でも藤山さんはクラシックの道を捨てたのではありません。「自分はクラシック歌手も歌謡曲歌手も両立させてみせる」と、藤山一郎として歌謡曲を次々と世に出す一方で、本名の増永丈夫名でヴェルディのアリアや第九の独唱を披露されています。
言わば歌の二刀流ですね。それを考えた時、私は氷川きよしとして演歌・歌謡曲を歌い、KIINA.としてロック・ポップスを歌う今のKIINA.と合い通じるものがあると感じました。
藤山さんの場合は歌謡曲とクラシックで発声法を変えたわけではありませんが、流行歌がクラシックより一段も二段も低く見られていたこの時代(今でもそうですが)、「クラシックだけに専念しろ」といった批判もある中で、誇りを持って異なるふたつの音楽ジャンルを歌い分けていたのですね。
ここにこんな立派な先達がいらしたのに、いったいいつ誰が演歌だポップスだとわざわざ歌をジャンル分けし、なくていい壁を作ったのでしょう。
藤山一郎さんという歌の二刀流を貫いて誰もが認める結果を出し、国民栄誉賞を受賞された偉大な先輩がいらしたことを再発見し、KIINA.の進むべき道は間違っていないと改めて確信しました。