※勘太郎月夜唄〜1943年(昭和18年):KIINA.2000年
映画「伊那の勘太郎」の主題歌として小畑実さんが歌われ、大ヒットしました。小畑さんは日本統治下の朝鮮で生まれましたが、終戦までは出自を日本としていたそうです。「勘太郎月夜唄」の前に「湯島の白梅」がヒット、KIINA.はこの歌もカバーしていますね。
この曲が出る2年前の昭和16年12月6日のハワイ・真珠湾攻撃を契機に日米は全面開戦へ。人命も経済も測り知れないほどの犠牲を出しながら、それから4年もの間日本は戦争を終わらせることが出来ませんでした。
国民の戦意高揚のため、音楽家も芸術家も文学者も協力を強いられました。音楽家は軍歌や戦時歌謡を作り、画家は戦争画を、作家は戦争賛美の詩や文章を綴りました。
日本の正義を信じて積極的に協力した人もいれば、時節柄やむを得ない選択をした人も、中には自分の節を曲げず沈黙を通した人もいたことでしょう。
満洲からの引き揚げを体験されたなかにし礼先生は、ご自身の番組にKIINA.を呼んでくださり「戦争を賛美する歌は、名曲であればあるほど罪が重い」と、音楽家の責任というものに言及されていましたね。
レオナルド・フジタという名でフランス画壇の寵児であった藤田嗣治はヨーロッパでの戦禍を逃れて日本に帰国していましたが、この時期に軍の依頼で数多くの戦争画を制作しています。
その中で最も有名な「アッツ島玉砕」という作品をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
ちょうど「勘太郎月夜唄」が出された昭和18年、日本軍が激しい攻防の末にアッツ島をアメリカ軍に奪われ、初めて「玉砕」という言葉が使われた戦闘の模様を描いたものですが、乳白色の肌の美しい女性を描いた同じ画家の絵とはとても思われないほど、日本兵もアメリカ兵も正視するのが辛くなるほど生々しい絵です。
「玉砕」「転進」。軍はあらゆる言葉を弄して国民に戦争の真実を誤魔化し続けました。「おかしいなあ…」と薄々感じながら、多くの国民は「勘太郎月夜唄」を楽しく聴いていたのでしょうね。
中原中也の詩に「サーカス」という作品があります。
その一節
「幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました」
中原中也はこの戦争が始まるずっと前に亡くなっていますから、この「茶色い戦争」は第二次大戦ではありませんが、文学少女あるあるで中也大好きだった私の中で「戦争=茶色」のイメージになっていました。藤田の「アッツ島玉砕」も、一面茶褐色に塗られているのです。
アルバム「昭和歌謡史」の収録曲で終戦前の曲は「勘太郎月夜唄」が最後です。
ヤレヤレという気分がどこかにあります。歌の時代背景を書くのに、やはり戦争の時代は気が重いのです。
どの歌もKIINA.が素晴らしく歌っているだけに、その同時代にやってはいけない戦争があって、沢山の尊い命と人生が奪われたと思うのは気が重かったです。
「味わい尽くす♬」では、こんなことを書きました。
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