アシタカせっ記

若干サイキックになってるえんぱす・ハードHSPで境界線がうす〜い人間の、自分と他人を健全に大切にする奮闘記

ひとと境界線と本当の気持ち

2021-07-22 10:34:24 | 日記

んでは早速、わかってあげようとし過ぎちゃう癖について書いてみますー

私は昔、バイトでホテルのフロントや、カフェやらスナックに勤めてたことなんかがありました。そういう時、このスキルってものすごく可愛がってもらえたし、喜んでもらえることが多かったです。

でも一つ前の記事に書いたみたいに、実際に生活でこれを発揮するとき(と言ってももう自動反射なんだけど)逆に人間関係がうまくいかなくって悩みます。。

 

最初はすご〜くありがたがってもらえるんです。

こんなことまで気がついてくれるの、とか、なんでわかっちゃうのって、まるでずっと気がついて欲しかったことをはじめて気がついてもらえたみたいに喜んでくれちゃうから、嬉しくなってもっと見つけちゃお(ワーイ)って気持ちになっていくと、トチる・・

 

おそらく人には、入って欲しい時と入ってほしくない時っていうのがあって、それがきちんと察せる余裕が自分にある時はよかったんです。でも、相手も察してもらうことに慣れてきた、それから自分自身も、察してあげることに慣れてくる、という関係性になると、いつのまにかバランスが歪んでしまうみたい。

大切だから色々やってあげたいとか思っちゃうんだけど、人には良くも悪くも適応する能力があるから、察してもらう・察してあげるがスタンダードになっていって、そのうち当たり前の生活になっていく。そして自分がなにか配慮ができなくなっていったり、余裕がなくなってるときに、なんでわかってくれないの?と言われてみて初めて、自分が無理をしていたんだということに気がつく。気がついた。最近そんなことがありました。

 

自分が無理をしていたときがつくと同時に、自分と相手の関係性の中で、「やってあげてる」ってごくごく自然に思っている自分にも気がつきました。最初こそ、そのひとのため、喜んで欲しいと思ってやったことではあったけれど、段々とその純粋だったはずの気持ちは、やらなきゃいけないに変わっていった。

自分のことよりも相手のことを優先してきたつもりはなかったけれど、事実そういうことになっちゃってて、やらなきゃいけないにかわっていったら、やりたくないのにやらなきゃいけない、でもその見返りもない。みたいなサービス残業気分になってしまっていたみたい。自分でやりはじめたことだったのに。わたしってばーー・・・

 

あと、自分がこれだけやってるのに応えてくれないっていう逆のケースも実は体験してて、例えば自分がこれだけやってるのに相手が応えてくれないって怒ったこともありました。自分は顔色を伺ってこういうことして欲しいのかな?って当たり前みたいにやってきちゃったんだけど、それが結果として相手にとって迷惑にしかなってなかった、っていう悲しいけーす・・ 踏み込み過ぎちゃったんだね・・

なまじ自分が察するちからに長けてる!って自負があったんです。だって、仕事ではさーーんざん褒めてもらってきたことだし。でも、自分の中に余裕がなくなっているときって相手の都合も考えずにずかずかとパーソナルスペースに入ろうとして逆に不快にさせちゃったり、やらなくていいことまでやっちゃったりしてたりする。あくまで私の場合。

それこそ、自分で勝手にやりはじめたことだったのに。

 

 

一旦冷静になって振り返ってみると、面白いことがわかりました。先に弁解しておくと、ほんとうのほんとうに私、人に喜んで欲しいと思っていろんなことをやってきたってことに嘘偽りはありません。

だけど、余裕のない自分がどうしてそこまでして人に尽くしてきたのかっていう、本当の気持ちを掘り下げていったら、悲しい事実がわかってしまったんです。私は自分自身が満たされてなくってたまらないから、なにかをやって認めたもらいたかったみたいでした。

 

ほんとのほんとに、その人のことが好きだったんですよ。喜んで欲しかった、喜んだ顔が見たかったんです。だから一生懸命やってきたし、その気持ちや行為に一切の嘘はない。いつだって本気でした。

でも、私は自分の欠乏感をその誰かに埋めてもらうことを求めてしまってもいた。ちょっと喜んでもらえることがあったとしても、足りないとか、自分の努力に見合わないとか感じるようになってしまってた。

 

自分のそんな本心を知った時、ちょっと悲しい気持ちになりました。ちょっとというか、かなり。なんだか今まで自分がしてきたことがほんとに相手のためになってたのかってことだとか、自分がやってきたことって無駄だったのかなとか、色々考えてしまいました。だって本当に頑張ったんだもの。だけど事実、相手の一喜一憂に自分の自己肯定感が左右されてしまっていたり、喜んでもらえたらハッピーだけど、そうじゃなかったらこれだけ頑張ったのに、って思っちゃってる自分がいて、自己嫌悪にもなったりして。なんでもかんでも相手のせいにしたり、自分のせいにしてた。

 

きっと、喜んでもらえても、喜んでもらえなくっても、自分がしたかったからした、って胸張って割り切れるくらいが本当にその人のために何かするってことなのかもしれない。私、まだそういうふうにはできてないみたいです・・人間だもの・・

 

一見、冷たく感じます。自分がしたかったからしたっていうのは、そもそもが「自分のためだ」って認めること。もはや、その人のためじゃなくなってる。

自分が余裕がある時は他人に優しくできる。けれど、余裕がなかったら当たっちゃったりすること、あるいは人によっては自分をどんどん蔑んだり下げていっちゃうことってきっと誰しもあって、余裕ないままでいるとどんどん他人のパーソナルスペースに入り込んでしまったり、自分が悪いんだってどんどん内に内に引きこもっていくと周りの人が怖くなったり嫌いになっていったりしちゃう。もちろん自分のことも嫌いになるし、無意識に攻撃的になってしまうと言うことも経験しました。

それを考えると、まず自分第一で考えてしまって、誰かに何かをやってあげるみたいなこと一切考えないで、好きなようにするくらいの方がいっそ突き抜けて健全な関わり方なのかもしれないなんておもったり。

 

自分第一とは、自分(のことを大切にすることが)第一っていう意味合い。自分がいい気持ちでもう鼻歌交じりな気分〜ってときには、勝手に人に優しくなっちゃうし、誰かに何かを埋めてもらおうって考えたりもしない。だって満ち足りてるし、いい気分だから 何も考えてない

自分が一番心地いい状態って、そういう感じ。自分もハッピー、誰かもハッピー。

 

なんなら私と関わってくれた人みんなハッピーになって欲しいなんて思っちゃうし私は。ごうつくばりだから。

あれ?そうするともしかして、私が余裕なくなってる時っていうのは、誰かにいい気持ちにしてもらおう・・って、考えてたってことに・・なる・・・??

 

でも誰に言うでもないけどいわせて欲しい。私、ほんっとーーーに色々やってきたんです。今まで生きてきた中で、人に好かれようと思って、ここがだめって言われたら直してきたし、こういうところが気に入らないって言われたらその場で変えて、人の気持ちだって余さず取りこぼさないようにって、一生懸命に。

でも、直してみても好きになってもらえないことも多くて、ここがダメって言われたから直したのに今度はこう言うところがダメだって言われたりして、延々とダメ出しされるみたいなことが起きて、結果わかってしまったんです。

ああなんだこの人たちは、なんだかんだ言いながらただ単に私のことが気に食わないだけなんだなってこと。 つまりその人たちと仲良くなろうと思ったとしても、その部分を直したところできっと仲良くなれないんだってこと。

そうしたらやっぱり、誰かのためになにかをするなら、それも自分のためなんだって割り切った方が健全なように思います。誰かに喜んで欲しかったことも本当の気持ちだけど、本当に仲良くしたいと思ったら、その人がなんか気になって仲良くしたいなって思えるくらい自分が楽しく生きるってことの方がきっと何倍も健全だし、ずっと仲良くなれる気がする。

 

 

自己肯定感・・自分を肯定するちからとも言い換えられるかな。これって、誰かにまかせちゃだめなんだ、きっと。

自分がやったことが喜んでもらえた時ってすごく嬉しくって、もっと喜んでほしくって、もっともっといっぱいやろうとしちゃって、気がつけば私は、そのひとの超えてほしくない境界線を踏み越えてたんだと思う。それで喜んでもらえないからもっと踏み越えていこうとしてみたりして。ありがた迷惑って言われても仕方ないことしてたかもなあ・・ 

 



コメントを投稿