映画『PERFECT DAYS 』を観た。
主人公平山が読んでいた文庫本に、幸田文の『木』というものがあった。僕も読んだばかりの本だ。
その冒頭に「えぞ松の更新」という、とても印象的な一文があって、この文章と平山とを重ね合わせた。
えぞ松の古樹の命が尽きて倒れると、その倒木を苗床にして次の世代のえぞ松が、育ち始める。
だから、若木は倒木の「一直線」をトレースしたように、森の中に現れるのだ。
幸田文はこう言う。
えぞ松は一列一直線一文字に、先祖の倒木のうえに育つ。一とはなんだろう。どう考えたらよかろうか。さぞいろいろな考え方があることだろう。私にはわからない。でも、一つだけ、今度このたびおぼえた。日本の北海道の富良野の林中には、 えぞ松の倒木更新があって、その松たちは真一文字に、すきっと立っているのだ、ということである。なんとかの一つ覚えに心たりている。
平山は毎日毎日ひとつのことを繰り返すように見えるが、それは倒木をトレースするように、若木が芽生えているに過ぎない。倒木はその生を全うしたからこそ、それをトレースするに足る存在なのだ。トレースが一様に見えるとしても、それは倒木が、完璧な一日を終えたからではないか。
「一つとはなんだろう」幸田文は問うけれど、彼女は「一つ」と括ることの、傲慢さを知っている。だから、平山の行動が毎日毎日の繰り返しに見えるのは、そう思うものの傲慢さのしるしなのだ。
そして、そんな理屈をこね回すまでもなく、この映画は何度観ても鑑賞に足りる。