藤陰会茨木支部ブログ

春日丘高校藤陰会の茨木支部のブログです

竹久夢二略年表

2013年04月27日 | 日記


資料  竹久夢二略年表(●は春日丘関係の記事です)↓当日の写真は右上のフォトアルバムをご覧下さい。


明治17年 1884年 9月16日 岡山県邑久(おく)郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町
本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなってい
たため、事実上の長男として育てられる。(本名は竹久茂次郎)姉、松香7歳。

明治32年 1899年15歳 神戸の叔父宅に寄宿、兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現
在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12 月には家の都合で中退。

明治33年 1900年16歳 父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求め
たため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎も
しばらく製鉄所で働く。
明治34年 1901年17歳 家出して単身上京。

明治35年 1902年18歳 早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』
などに投書。
明治36年 1903年19歳 明治37年(1904年)20歳

明治37年 明37【談判決裂。対露宣戦布告(日露戦争)】

明治38年 1905年)21歳 友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵
が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、
日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。
同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を
名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。

明治39年 1906年22歳 童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。

明治40年 1907年23歳 岸たまきと結婚。たまきをモデルに「夢二式美人」生まれる。読
売新聞社に入社し時事スケッチを担当。幽冥路の筆名

明治41年 1908年24歳 長男・虹之助誕生。

明治42年 1909年25歳 たまきと戸籍上離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』
発刊、ベストセラーとなる。
明治43年 1910年26歳 たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の
容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行『宵待草』を発想。
明治44年 1911年27歳 次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。

明治45年 1912年28歳 雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩
を発表。、京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
明45【明治天皇崩御。大正天皇践祚】 【川端康成旧制茨木中学校入学】

大正2年 ●5月1日 - 茨木町外8ケ村学校組合立三島実科高等女学校設置。
1913年29歳 11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』
を現在の三行詩で発表。

大正3年 1914年30歳 日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店
【オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦勃発。】

大正4年 1915年31歳 婦人之友社より雑誌『子供之友』、『新少女』 創刊、絵画主任と
して挿絵を描き始める。たまきとは離別。。「一力」「こたつ」を描く。

1916年32歳 2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表
紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。

大正5年 1917年33歳 高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧
会」を開く。『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮(おおのた
     だすけ)が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。

大正6年 ●大6年5月9日 - 郡立に変更、大阪府三島郡立三島実科高等女学校と改称。
【ボルシェビキによるロシア十月革命。】

大正7年 1918年34歳 『宵待草』セノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとな
る。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
    ●4月23日 - 組織変更により大阪府三島郡立三島高等女学校と改称。
【第一次世界大戦終結】

大正8年 1919年35歳 寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日
本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」

大正9年 1920年36歳 彦乃25歳で病没。『長崎十二景』、『女十題』のシリーズ制作。
●大9年1月1日 大阪府三島高等女学校と改称。
【国際連盟発足】


大正10年 1921年37歳 お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持
つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。作品「盆おどり」
●大10年4月4日府立に変更し大阪府立三島高等女学校と改称。
大10【原敬首相、東京駅頭で暗殺】

大正11年 1922年38歳 春、山形方面へ旅行、滞在。夏、不二彦と富士登山。   

大正12年 1923年)39歳 恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災
     (大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、
スケッチ21枚を「都新聞」に『東京災難画信』として寄稿連載。    
大12【関東大震災】

大正13年 1924年40歳 アトリエ兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を東京府荏原(えばら)
郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。この年に発刊された雑誌『婦
     人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画とい
われる木版画「秋のしらべ」などを発表。


大正14年 1925年41歳 作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は去る。後、順子とも別れる。

大正15年 1926年42歳 このころから、海外旅行を希求する。
【川端康成『伊豆の踊子』を発表】


昭和2年 1927年43歳 『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。

昭和3年 1928年44歳 母・也須能、没(享年72)
      ●昭3年4月5日 - 大阪府立茨木高等女学校と改称。

昭和4年 1929年45歳 群馬県高崎市で吉井勇らと、文芸大講演会を開く。

昭和5年 1930年46歳 4月、群馬・伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究
 所」の構想を練る。

昭和6年 1931年47歳 父・菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5
    月7日に秩父丸で横浜を出航し、ホノルルを経由して龍田丸で渡米。
昭6【満州事変】


昭和7年 1932年48歳 前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、
米不況もあり受け入れられず不調。 9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1
年の滞欧中、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスの諸都市を巡
    り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
昭7【五・一五事件・日満議定書調印。満州国承認】

昭和8年 1933年49歳 ベルリンに滞在の後、8月19日ナポリを発ち、9月18日、靖国
丸で神戸に帰国する。10月26日、河瀬蘇北に伴われ台湾を訪れ講演し、「竹
    久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床に
つく。
昭8【ヒトラー(ナチス党党首)が首相に就任】
【国際連盟に脱退通告文を送付】
【アメリカ、ルーズヴェルト大統領就任】


昭和9年 1934年50歳。(49歳11ヶ月)で逝去。
1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘(ふじょきゅう)院長の手
配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見
高原病院)に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。49歳
没。辞世「日にけ日にけかつこうの啼く音ききにけり かつこうの啼く音はお
ほかた哀し」有島生馬らにより東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬される。
戒名「竹久亭夢生楽園居士」

●昭9年9月21日 - 室戸台風の風害のため茨木高等女学校(春日丘高校)本
     館他倒壊、教師1名、給仕1名殉職、生徒4名死亡。
【満州国、溥儀を皇帝として推戴。】
【ワシントン条約廃棄をアメリカに通告】

      ※ 年齢は満年齢。夢二郷土美術館の資料は数えの年齢で記載されています。
    

藤蔭会茨木支部2013年総会・親睦報告

2013年04月19日 | 日記
藤蔭会茨木支部の平成25年総会および小旅行の報告です。

【案内文】(抄)

早春の候 皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。今年の親睦会のお知らせです。茨木にお住まいの方は勿論、同期やお知り合いの方をお誘いあわせの上、お気軽にご参加下さい。

日時 平成25年4月11日(木)
am8:50集合 9:00出発
集合場所 JR茨木駅西口近く摂津信用金庫前
行き先  備前方面(岡山県)
行程
  9:00 摂津信用金庫前出発
  11:10 備前焼しょうざんギャラリー見学  
  12:30~14:00 昼食 ホテル「リマーニ」    
     日本のエーゲ海(瀬戸内海)の風景が一望できます
  14:30~15:30
     竹久夢二生家・少年山荘見学
     竹久夢二美術館
15:30~(帰路)岡山ブルーハイウエイ
18:30 茨木摂津信用金庫前着 解散
参加費 6000円(当日ご持参下さい)
申込先 川端孝子(S40) 稲本直子(S40) 田代武久(S40)
  藤蔭会事務局(月・水・金午後)  ※ 詳細は川端孝子までご連絡下さい