引きがけ
自分は、50年くらい、掃除機をかける時、掃除機の吸引部分を奥の方へ押しながら吸い込ませていた。
それは大きな間違いなのだそうである。
またまた、「ためしてガッテン」の番組で教えてもらったのだが、掃除機の吸引口を向こうの方に押した後、そこから手前の方に引いてくる時に吸引力が一番高まるのだ。
掃除機を「押しがけ」ではなく、「引きがけ」をすれば吸引効率が格段に上がるという。
くしゃみ鼻水鼻づまりとおさらば!決定版!ハウスダスト徹底除去ワザSP
http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20191113/index.html
より一部を引用します。
正しい掃除機のかけ方」とは・・・「引き」を意識して掃除機をかける。
たったそれだけのこと!
実は、現在販売されている掃除機の多くは、掃除機を「押す」ときよりも「引く」時の方が、ごみがよく取れます。
掃除機を後ろに引く時は、掃除機のヘッド部分についている「回転ブラシ」がごみをかき上げる力と、私たちが掃除機を引く力が合わさり、より強い力で多くのごみをかき出すことができるのです。
引用終わり
ハウスダストの除去率が大きく向上する
引用したのは記事の一部だけなのだが、メッセージは、「正しい掃除機のかけ方を実践した」だけでカーペットに潜んでいたダニの死がいが効果的に吸引されて、その結果、子供のアレルギー症状が改善された事である。
思い出す限り、50年くらい前、掃除機が普及し始めた時は、掃除機には吸引口しか無かった。
それが、いつの頃からか、掃除機の先に、回転するブラシがつくようになっている。
これが、そんなに重要な物とは思っていなかった。
回転ブラシがゴミを掻き出して、そして引くときに、引く力と回転ブラシの力のベクトルが加わって、吸引力がグーンと上がるそうだ。
これを知ってから、掃除機をかけるのが以前に増して楽しくなった。
実際、よくゴミが吸引できるようになったと思う。皆さんの参考になれば幸いです。
小さいもの
2回くらい前のブログに、「年寄り扱い」されるようになった事について愚痴をこぼした。
そのすぐ後、朝の礼拝で、相談役(前理事長)の柏木先生が「誰でも病気になったら小さい者になる」という事を話されていた。
確かにそうである。
年寄り扱いするな、と怒っていたが、誰でも年を取れば、体力は落ちるし判断力も落ちる、自分も、今、現在、この時点で、世間から見て小さい者になっていた事を改めて思い直した。
年寄りや病人、旅人など、周りから見て弱い立場にある者は、誰でも「小さい者」なのである。
この「小さい者」という言葉は聖書由来である。イエスは「正しい人たち」(後で定義が分かります)に次のように言う。
マタイによる福音書 25章40節
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
人間はいったん病気になってしまったらホントに弱いものだ。
あんなにガミガミとうるさかった嫁さんも病気になってから、「小さい者」になってしまった。
自分は既に小さい者なのだ。優しく声をかけて貰う事に有り難く感謝しなければならない。
誰でも、若い人でも偉い人でも病気になったら、小さな心遣いや励ましがとても有り難く思えるようになるのだ。
呪われた者ども
一方、その対極にある、「小さい者に対して何もしない」、呪われた人どもは、いったいどうなるのだろうか。
こんな事は礼拝では誰も言わないし、ネットにも出てこない。さて、聖書では、どう続いて行くのだろうか。
41節
「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ、
中略
そして45、46節では以下のようにまとめられている。
「はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。
感想
今週、カトリックの教皇が来日されるそうだ。
それと共に、「なぜ日本ではキリスト教の布教が難しいのか」という議論をネットで見かえるようになった。
自分は、「正しい人」の対極である「呪われた人ども」の概念が日本人に受け入れがたいことも、その理由の一つであると思う。
なぜ日本人にキリスト教の信仰が普及しないのか、ネットで色々検索したが、以下のブログが面白かったので紹介します。
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=164843
日本の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。
それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。
そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。
元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。
「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。
当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。
引用終わり
まとめ
このブログの出典である、土居健朗氏の「聖書と甘え」については早速、アマゾンに注文したのだが、中古品で送料込みで483円だった。
今更ながら、昔の日本人は偉かったと思う。
この本のレビューによると、聖書を少しかじった事がある人には、とても面白い本だそうだ。
自分も、いつの間にか聖書のあちこちを聞きかじっているので、読むのをワクワクしている。
さて、急に寒くなってきました。
先週末は息子2人と京都で「イノベーション」と分類されるレストランに行ってきました。
従業員の平均年齢は27歳とかで、NZ人のシェフが流ちょうな日本語で説明してくれるのが印象的でした。
そのうち、紹介したいと思っています。