共産・藤野保史政策委員長「防衛費は人を殺す予算」取り消し NHKでの発言、番組後に「不適切」認める 18:24(産経)
ブログを開設するのと時を同じくして、代々木の政治屋がこのような発言をしてくれた。
はじめに当ブログのスタンスを明確にしておく必要からも、上記のニュースに言及することは意義があると思う。
防衛費とは、人を殺す予算などでは断じてない。
防衛費とは、すなわち軍事予算である。軍事予算とは、軍備予算でもある。
軍備とは、長期的に見れば戦争への備えである。
戦争とは、人を殺すための営みでは断じてない。といってクラウゼウィッツのいうように「政治的行為の延長」上にあるのでもない。
ましてや毛沢東同志がおっしゃったように「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治」なわけでもない。
では、戦争とはなんなのか。
私の言葉で説明するのは憚られるので、軍事学、政治哲学、国際政治学その他様々な学術文献を参照すれば教科書的な説明は載っているだろうから、
そちらを参照していただきたい。
だが、私の言葉としてこれだけはいえる。
戦争とは、人類の最も尊い営みなのだと。
「戦争の目的とはなにか」だって?
そんことを論じる必要はないでしょ。
この世の事象すべてに目的があると考えるのは悪癖だよ。
だが強いていえば、戦争の目的とは戦争することそのものなのだ。
戦争するために戦争するのだ。
ただこれは少々語弊があるので、本当はこのように言いたい。
戦争というものは、なにか超自然的な力によって引き起こされる。例を挙げよう。
WW1のドミノ倒しを想起していただきたい。
最初にオーストリア=ハンガリー帝国が動員した。次にロシアが動員した。さらにドイツが動員し、フランスが動員した。
ここに目的意識など介在する余地はなかった。ましてや「人を殺すため」などという卑小な目的などあるわけがない。
戦争を起こすのは「見えざる手」なのだろうか。いやこれも誤解を招く表現だ。
いずれにせよ「戦争とは人を殺すことである」という愚にもつかぬ命題を論ずる暇などないのだ。
結局のところ、戦争を引き起こす段階において人為の介入することなどできないのだ。
戦史にかんする本はいつも私とともにあった。
罪の意識にさいなまれていた私が、戦争によって聖とされるような気がした。
私にとり、戦争は救済だった。
なにがいいたいかっていうと、政治屋の発言に一喜一憂するまえに軍人勅諭を読み、先軍政治しましょうってこと。
追記:上記文章は少々ラリった状態で書いたものなので、
「戦争の目的」について真面目に知りたければ
私の糞みたいな文章なんぞ読む前に
クラウゼウィッツを熟読してください。