My Life

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自然なんだな人間だもの  相田みつを

今は懐かしい! みかんの花咲く丘

2010年07月01日 | 日記

1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった

。放送前日の8月24日の昼過ぎになっても依頼作品が仕上がらずに悩んでいた作曲家の海沼實のもとへ、音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田正子の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきたという。海沼は加藤に急な事情を説明し、自らが歌詞の内容を示唆しながら加藤に1番と2番歌詞を作らせ、そこに加藤が自作の3番を書き加えて、20~30分で歌詞を完成させた。

 それから海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲して車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと着想した。そして伊東線の宇佐美駅付近でこの歌を書きあげた。翌8月25日の放送に間に合わせた。

人気絶頂の童謡歌手川田正子の歌唱で放送された歌は日本全国に大反響を呼び、『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。、『みかんの花咲く丘』を最初に歌った川田正子は、2006年1月22日に71歳の生涯を閉じたが、彼女の所属した音羽ゆりかご会の演奏活動と、その会長である三代目海沼実らによる童謡普及活動によって、これらの名作は今なお広く愛唱されている。

 Jリーグの愛媛FCの応援ソングになっており、選手入場時にサポーターが歌う。


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