1950年代前半(昭和20年代後半)、鉄道輸送が蒸気機関車から気動車へ転換するのに伴い無人駅を設置する手続きが容易になった。このため1955年(昭和30年)頃から地元住民の間で新駅の設置運動が始まり、1956年(昭和31年)3月には横川町で新駅の建設委員会が設立された。同年11月には日本国有鉄道から新駅を設置するとの回答が得られたものの、178.6平方メートルの建設用地、48万円の建設費用、および周辺の道路整備などは全て地元負担との条件が提示された。これに対して用地は地元集落が提供、建設費用は横川町が負担することで話がまとまり新駅の建設が始まった。工事には多くの地元住民が参加した。待合所の建物も立木の伐採から製材、建築まで地元住民の手で行われた。
新しい駅は植村駅と名付けられ1957年(昭和32年)7月5日に営業を開始したが、当初は気動車しか停車することができず蒸気機関車が牽引する客車は通過していた。全ての列車が停車するためには5両の客車が収まるようにホームを延長する必要があったが、牧園駅(現在の霧島温泉駅)側に踏切があり、大隅横川駅側も勾配が控えていたため延長は困難であった。窮余の策として5両の客車のうち先頭前方のドアと最後尾後方のドアがホームにかからない状態を認めさせ、1965年(昭和40年)10月1日から客車も停車するようになった。
私が植村に住んでた頃1日の乗り降り客は50人前後で 町の病院通いのお年寄りと学生であったが 最近1日の乗り降り客 平均3人である 過疎化が進んでいるらしい!
近くを流れる 万膳川で遊んだ 毎日眺めた霧島連山懐かしい 。
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