和輪 ~Warin~

久留米市に2010年にオープンした
OYASTU cafe&お食事処
和輪 ~Warin~です。

日のもとの国に住みたるその民はおもいの丈をかたちにしたる

2021-12-10 16:28:33 | 店長のひとりごと
もう12月も10日ですね❗

本当に月日の流れるのは…
早いものです。

さてさて
お題目で詠んだ詩

日のもとの国に住みたるその民はおもいの丈をかたちにしたる

これは…この時期いつも思うことですが
日本人として生を受けて日本人として育ったことを良かったと思う詩かなぁ…❓️🤔と

アハハ🤣🤣🤣
真面目に話すなって❗

まあね✨😊😊
和輪だって時々真面目になりますよ!

ああ❗プンプン😡⚡
いつだって真面目だぞ❗😠😠😡😡
な~んてね🤣🤣🤣
アハハ😅😅おバカだからね
話し方がちゃらんぽらんだかね~仕方ないね~😉😉✌️✌️

そうそう本題に戻しましょうか!

この時期と言えば…
ひと昔では…必ず忠臣蔵でしたね✨😊😊

今はテレビでもドラマ化される事がなくなりましたね✨

やって欲しいですね❗

そうそう😃💡
そこで…今日のお話は忠臣蔵にまつわるお話をしましょうか?

さてさて
みなさんは…
何故?
赤穂浪士が討ち入りに至ったか?
ご存知ですか❗

当たり前だろう❗と😠😠😡😡

アハハ🤣🤣🤣怒らない!
怒らない!

この一つをとっても日本人が如何に勤勉で多くの事におもいを馳せて学ぼうとしてきたか?がよくわかるエピソードを紹介出来ればと

そしてね😊😊
そこにある“粋な計らい”を紹介出来ればと
粋な計らいがやはりおもてなしの心にも通じるものがありそうですね✨😊😊

アハハ😅😅長くなりそうなので…はちょるぞ❗

刃傷に及んだ原因は❓️🤔
よく言われるのが接待役にまつわるイジメ!
そして…塩に絡む利権の問題等々様々ですね😊😊

では…今日はこの詩に秘められたおもいから紐解いてみましょうか?

“花さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん”

ご存知の通り 浅野内匠頭の辞世の句ですね✨😊😊

詩というのは…本当に奥が深いものですね😊😊

この詩を読む日本人なら誰しも
無念のおもいを残して
その悔しい気持ちを詩に詠んだ❗
こんな感じで受けとるのには十分な教育や感性を備えています。

和輪もそうでした❗

だから…悔しいだろうなぁ❗と気持ちが入ったものでした。

その悔しい気持ちを受け止めての家臣の皆さんの討ち入り❗

これだけでも十分に感動物語ですね😊😊

さてさて
では…詩の意味をもう少し深く掘り下げて考察してみましょうか!

この時代の…花と言えば
桜を意味します。

そして…春の花と詠んだ場合は
“朝廷”を意味するものとなります。
そのように理解し考察した場合は…この詩はこの様な意味に取れるものとなって行きます。

我が国は 天皇を中心とした国家である。
我はまたそのおもいの名残(天皇中心で有り幕府中心ではないと正したい)をどうやって残したり繋いでいってもらえれば良いのだろうか!

という様な解釈となってくる訳ですね❗

要するに…何が言いたいか?と言いますと

刃傷に及んだ原因は…席次の問題だと言うことです。

当然朝廷と幕府
互いに儀礼的な挨拶等々の往来は何度もあった事と思います。

本来は…将軍や幕府というものは
天皇や朝廷から認められて成り立っているもののはずなんですが…
簡単に言うと
天皇の部下が将軍な訳ですね😊😊

部下が…上司の上座に座りますか?

これは…おかしいでしょ❗

これを正したかった❗というのが本当の意味なのだ❗という説もあるのです😊😊

天皇の名代が挨拶にくる!
天皇の代わりに来ているわけですからね✨😊😊
本来の身分が将軍よりも低いとしても…本来迎える場合は下座に座るのが当たり前なわけですからねですね❗
しかし…そうはならず
将軍が上座に鎮座して挨拶を受ける!

これが許せないという訳です。

このあしき習慣は…遠く足利幕府時代に始まりました。
確か…3代将軍ぐらいからだったと思います。(説明長くなるので割愛)

その足利幕府時代の儀礼典礼に詳しいのが上杉家となってくる訳ですね😊😊

浅野家は…接待役を幕府から2回命じられています。

アッ!
その前に…戦国時代から落ち着いて平和な時代となった時に武士は…それぞれの藩でそれぞれの勉強をすることとなって行きます。
それが…藩風となって行くわけですね😊😊
当然の事ながらその勉強を教えてもらう先生によって色々な物事の捉え方が変わってくる訳です。

赤穂藩の先生を務めていた先生というのが…内匠頭のお父様が採用された先生で家老待遇で迎え入れた先生です。

山鹿素行という方です。
討ち入りの際に必ず登場する!
それとか…お土産としても必ずある!
山鹿流の陣太鼓❗その元となった方ですね❗

そして…この山鹿素行という先生の教えというのが
将軍よりも天子が偉い❗という教えを説いて江戸をところ払いとなった人なんですね❗

だから…内匠頭はもちろんですが赤穂藩で育った武士の心得として当たり前の様に“天子が1番偉い!”となってる訳です。

一度目の接待では…頭にくるけれど立派に接待役を果たします。
また…その接待が素晴らしい!との評価を得て…2度目の接待役を言い渡されます。

赤穂藩の武士達は…一度なら我慢も出来ようが…二度となると…
そういうおもいを内匠頭に伝える訳ですね❗

そこで…なんとかこのあしき習慣というかを正そうと考えた内匠頭は…刃傷に及びその取り調べの際に自分の意見を述べようとしたのです。

さてさて
長くなりました。

まとめましょうね❗

このときの将軍が綱吉だったと思います。

和輪はですね😊😊
幼き頃に歴史を学び始めた頃好きな将軍でした❗

しかし…生類憐れみの令かなぁ❓️🤔

この発布を知って少し嫌いになりました。

そして…この赤穂浪士の討ち入りの物語を知るにあたって
何も聞かずに切腹を命じた事によって…ハッキリと嫌いになりました。

そして…赤穂浪士達が討ち入りを果たして
その赤穂浪士全員も切腹させた❗
もうね❗大嫌いになりました❗

更に…上杉家に対して一切のおとがめ無し!
これを聞いて大大大嫌いな将軍になってしまいましたよ~🤣🤣🤣
そりゃ…そうなるだろう❗
この時よく言われたのが喧嘩両成敗ということですね😊😊

さもあろう❗さもあろう❗と
アハハ🤣🤣🤣和輪も武士になったつもりで頷き!ました。

お前なんか❗大キライ❗となっていたわけです❗

さてさて

今は…和輪くんはどうなんでしょうか?

アハハ🤣🤣🤣
今は…1番好きな将軍かも知れませんね❗

それは…何故か

和輪も歳を重ねていろんな事を学ぶわけですね✨😊😊

まずは…切腹❗
切腹というのは…武士に取って名誉な死に方であることを理解したことが一つですね😊😊

その名誉な死に方を赤穂浪士達に与えた事が…好きになった1つの理由です。

そして
そして…大好きになった理由が

その大石内蔵助以下に切腹のお沙汰を下した時の事にあります。

役人が…上位であるとお沙汰を読み上げます。
そして…大石内蔵助にそれを見せます。

大石内蔵助は…“ははぁ”と🙇🙇
承る訳です。

そして…役人はお沙汰の書かれた書状を畳んでから話します。

役人と言わず…将軍からの使者
使いのものと言いましょうかね❗
その使いの者が大石内蔵助に伝えるのです。

“将軍家においては
大変にこのたびの事を重く受け止めておいでになられる。
勅旨と将軍のせきは きっかり100年後にちゃんとした姿に戻るであろう。”

あいわかったか❗と

そして…大石内蔵助は感銘を受け平伏するのである。

そして…将軍綱吉は死ぬ間際の遺言において
勅旨と将軍の席次を改める事を遺言として残します。

そして…時は経ち100年後
幕府は…この五代将軍の遺言を守り勅旨と将軍の席次を改める事となるのです❗

綱吉!大好き❗となりませんか

アハハ🤣🤣🤣
如何でしたでしょうか?

色々な…おもいの丈を
推測し受け止める!

そんな…先人達の育んだものを受け継いでる!
日のもとの…

いいなぁ🎵と和輪は思うわけですね😊😊

アハハ🤣🤣🤣

そんなこんな…お話でした❗

長々とお付き合い本当にありがとうございました🙇🙇😊😊

それではみなさん
良い1日を☘️✨🌸☘️✨💞

(^o^)/~~またね👋😃✨


(*^-^*)へ
追加しておきましょうか😊😊

上杉家へのおとがめ無しのさた❗

これも…素晴らしいと思いませんか?

上杉家は…勅旨の儀礼典礼に詳しかった。
その事が…今回の事に繋がった。
悪いのは…あしき習慣を続ける将軍家で有り…上杉家は悪くない!と…

この話を知ってからは納得できる話になりました。😊😊

イエーイ👊😆🎵

粋な計らい❗だぜ~

でした。

😵💨もう一人のおバカちゃん
あんまりがっかりさせないで…



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