昨日まで宮城・福島と東北に出向いていたのですが,この週末にかけて日本列島は急速に発達した低気圧の影響で冬型が一気に強まりました。
仙台空港では予定していた飛行機が欠航になったりしましたし。
それと,金曜日には津波警報にも遭遇しましたし。
この週末,仙台から大阪に帰ってきても冷たい風が強く感じました。
そんな中,本日は京セラドームの一角にて,プロ野球選手を引退し,二軍バッテリーコーチとして歩み始めている
鈴木フミヒロのトークショーが行われたので行ってまいりました。
いつものスタジオアリス向かいのスペースにて。
観客の待機場所は,この季節も変わらずドーム外周通路で毛布に包まってる方もちらほら。
14時スタートだったんですが,朝5時から並んでいた方もいたとのこと。
司会進行は,すっかり選手トークショーが板に付いたはなPさん。
早速,フミヒロ登場。
観客からの「フミヒロさん」「15年間」「おつかれさまでしたー」
という声に迎えられたフミヒロ。
引退するか現役を続けるか,いろいろ迷った中で引退を決断したわけですが,
終始穏やかな表情で話をしてくれました。
トークショーのテーマとして用意されていたのは5つ。
まずは,フミヒロの代名詞となった「シドニーオリンピック」について。
フミヒロにとって,ヤクルト古田の代役を任されることになり重圧を感じていたこと,
そして,プロとして初めてアマチュア選手と合同のチームとなったにもかかわらず敗退してしまったこと,
結果,もう日本に帰れないという悲壮感を持ったほど思い出したくもない苦いものだったという話をされてました。
また,当時中日の星野監督から「シドニー」と呼ばれていたことについては(Wikipediaにも書かれてますが),
勝手にマスコミが書いたもので,真っ赤な嘘だということ。
「だから,これからはシドニーと呼ばないでください」
とのことでした。
ただ,オリンピックでは,プロとして長い試合戦い続けることと違って,
本当に高校野球の甲子園のときのように,1試合が絶対負けられないという戦いをしたのは大きな経験だったという言葉も。
正直,プロでは長丁場の中で,ここでは負けても仕方がないという場面もあるそうです。
特に当時はクライマックス・シリーズも無かったわけですし。
続いて2つ目のテーマは「交流戦」
2002年オフに中日から近鉄へトレードで移籍後,2003年は開幕3戦目にオリックス小倉からホームランを放つもわずか12試合の出場,
2004年はケガもあって1試合も1軍出場がなく,近鉄とオリックスが球団統合した2005年も2軍調整が続いていた中,
交流戦の開幕戦に,当時の仰木監督は鈴木郁洋をスタメンに抜擢。
野球人生の転機だったと本人は語っていました。
正直,当時は不振とケガが続いて野球を続けられるかどうか,この先の人生について考えるほどだったそうですが,
そんな時期に,ちょうど交流戦が2005年から始まったこと,
しかも,3位争いをしているチームとしても大事な局面で,交流戦の開幕で古巣の中日が対戦相手だったこと,
セリーグを熟知しており,特に古巣相手だったからということでチャンスを与えた仰木監督がいたということ,
こういうタイミングが重なったという話をされていました。
特に仰木監督の存在は大きかったということです。
調子が落ちているときに,偶然にも調子を上げてくれる人にめぐり合えたことが,
何よりも成績の良いわけではない自分を,15年も続けさせてもらえたのではないかと。
また,来季からはコーチとして,特に2軍の選手を相手にするわけですから,
チャンスが巡らない選手の気持ちもわかるだけに,そういう選手の良さを見つけたり,
チャンスが巡ってこなくてもしっかり準備を整えられるケアをしたいと。
次のテーマは「いけめん」
Wikiにも「プロ野球選手になっていなければ,ファッションモデルになっていた」と載っている話ですが,本人は一度も言ったことがないそうです。
オリックスには伊藤や齋藤など,イケメンキャッチャーが多いですね,って話も。ヨコヤマ(笑)
しかし,テーマから少し外れますが,2011年シーズンではご自慢の顔が傷ついた話題に。
試合前のシートノック中,思いも寄らぬ方向からボールが飛んできてピンポイントで鼻に当たってしまい骨折。
かなり出血もひどく,血が人工芝の上で水溜りのようになっていたほど。
ベンチ裏へ担ぎ込まれ,本人もさすがにこれは・・と思ったものの,スタメンが決まっていただけに,
なぜか「いけます」とコーチに直談判してしまったということでした。
出場できるかどうかを最後に問いただした岡田監督は,
いくら骨折しようとも出場を続けようという姿勢に満足したらしく,満面の笑みを浮かべてたそうで。
そういえば今季引退した阪神の金本選手が骨折しながらも出場を続けたことは有名ですが,
その時の監督も岡田さんだっただけに,そういう姿勢は好きなんでしょうね。
ただ,負傷の状態を相手のソフトバンクの選手も見ていただけに,川崎宗則をはじめ打席に立つ選手全員に心配されながら出場を続け,
結局その試合はオリックスがサヨナラ勝ち。
サヨナラの瞬間は,いつも先頭でサヨナラ打の選手へ水をかけにいくフミヒロもさすがにベンチから立ち上がれず,
負傷したときのボールを投げてしまった山崎浩司選手に肩を担がれながら
「ほんますんませんでした,すんませんでした・・」と何度も謝られていたとのこと。
その試合後に病院に行くわけですが,鼻を手術しなければ鼻が曲がった状態になってしまうと言われて手術を決断。
しかし,手術中に全身麻酔をすれば2~3日入院しなければならないと言われ,明日の試合にも出るために麻酔を断ったそうです。
それが,鼻の中に棒を2本突っ込まれ,強制的に元の位置に戻すために再び鼻の骨を折り曲げるというもので,
看護士数人に押さえつけられ,医師が馬乗りになりながら,涙を流しうめき声を上げながら手術をしたという壮絶な経験を語られました。
手術を終えたのが明け方4時ごろ,そして次の日の試合にも出場したのですから,
試合に出場することの大切さ,こだわり,そしてプロ根性というのは凄まじいものです。
4つ目のテーマは「激突」
フミヒロがマスクを被っている試合は,激しいクロスプレーが多いイメージがありました。
確かにフミヒロが細い体だけに,ホームに突進してくるランナーも吹き飛ばしてやろうと必死に走ってくるのはフミヒロも覚悟していたようです。
ただ,いくら激しく吹き飛ばされても負傷交代にはならないイメージがあります。
それでも,昨年のブラウンのプレーは激しく,その直後は出場を続けたものの,
さすがに迷惑がかかることを承知で途中交代してもらったわけです。
後で聞いたらブラウンは元アメフト選手だったということで,それでかと。
首や腰に持病を持ってるだけに,吹き飛ばされた直後はしびれで感覚を失い,徐々に痛みがわかってくるそうですが,
その痛みで立ち上がれなくなったのが守備を終えてベンチに戻ってきた直後,バッターボックスに向かわなければならないという時。
すでに太ももを強く蹴られていたために足が動かなくなったのだそうです。
最後,5つ目のテーマ,それは「キャッチャーとは」
大げさかもしれませんが・・
キャッチャーとは,自分がサインを出さなければ試合が動き出さない,試合を任されてるポジション。
キャッチャーとは,ホームを守らなければならない,点を失えばチームは負ける,だからチームの全責任を負うもの。
それだけ,ポジションの大変さ,そして責任の重さというものを感じていました。
「『ホームを死守する』とよく言いますが,キャッチャーとは,
本当に命を張って試合に出るものだと思っています」
最後に,来季からコーチとして,伊藤・齋藤・横山はじめ,まだまだ若い選手ですから,一軍として試合に出続けることについて,
多少のムチャを承知でいろいろ言うかもしれないけど,精神的なものも鍛えていければと。
そして,オリックスのキャッチャーは他チームから見て嫌がられるようになるように,指導していきたいという豊富も聞くことが出来ました。
意外とコーチの仕事も大変みたいです。
ずっとノックやったり球拾いやったりと準備から手伝わなければなりませんので。
ノックは練習しなければと。
ファンからの質問コーナー
<Q1>15年間いろんなピッチャーの球を受けてきた中で,一番凄いと思うのは誰ですか?
<A1>一番に挙げられるのは金子千尋投手です。彼は,野球をする上での頭がいい。
もちろん球が速い,コントロールが良い,球種が豊富ということもありますが,
一番はこちらが考えている打ち取り方のイメージまで理解して投げてくれる。
たとえば,ランナー1,2塁という場面で4番のホームランバッターを迎えたとき。
こちらはフォークボールを初球に要求したわけですが,これは空振りを取るフォークではなく,
芯を外させた上でゴロを打たせて併殺に仕留めたいという意図があった。
それを彼は感じ取って絶妙に相手にバットを振らせて芯より下に当てゴロを打たせる,
そして1球でピンチを切り抜けるということができるピッチャーです。
<Q2>今年のドラフトで伏見選手,原選手と2名の新人キャッチャーが入ってきますが,どのように育成しようとお考えですか?
<A2>まだ彼らのプレーを見ていないので何とも言えませんが,一番はプロの試合数の多さについていけるだけの体を作ってもらうこと。
ただ,伊藤・齋藤・横山を筆頭にキャッチャーは若手を中心にいますが,新人も含めて横一線だと思っています。
<Q3>小さい頃,憧れていたプロ野球選手はいますか?
<A3>実は申し訳ないんですけど,これという選手がいないんです。
福島県の小さな村の出身で,あまりプロ野球そのものに興味がなかったんです。テレビでは巨人戦しか映りませんでしたし。
最後にサイン会の抽選。
サインには,最後の#44を書かれていました。
以上です。
フミヒロさん,選手として本当におつかれさまでした。
プロ野球とは,有名な一流選手とフミヒロさんのような横一線で勝負をしている選手が共に出場して試合をしているもの。
私は2000年までオリックスが強かったのは,イチローがいたからだけではなく,高橋功一という脇役の選手もいたからだと思っています。
あまり有名ではありませんでしたが,主力の誰かが故障したり不振になると先発でもリリーフでも出てきて投げていた,
しかもハンパじゃないくらい投げ続けていました。
最後は肩を壊して,いつの間にか消えていった選手です。
それでも,そういう選手もチームを支えている,だから投手陣が安定していたし強かったということを忘れてはなりません。
オリックスはDHを含めて10人強いヤツがいればいいという野球ではなく,70人の全ての選手の利点を理解して戦えば強くなると信じています。
特に,若手が多く,不安定で力関係は横一線なチームであるからこそ,お前は必要なのだという意識を植えつけて欲しい,
そんな役目を影で苦労してきたフミヒロコーチに期待しています。
にほんブログ村
お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
仙台空港では予定していた飛行機が欠航になったりしましたし。
それと,金曜日には津波警報にも遭遇しましたし。
この週末,仙台から大阪に帰ってきても冷たい風が強く感じました。
そんな中,本日は京セラドームの一角にて,プロ野球選手を引退し,二軍バッテリーコーチとして歩み始めている
鈴木フミヒロのトークショーが行われたので行ってまいりました。
いつものスタジオアリス向かいのスペースにて。
観客の待機場所は,この季節も変わらずドーム外周通路で毛布に包まってる方もちらほら。
14時スタートだったんですが,朝5時から並んでいた方もいたとのこと。
司会進行は,すっかり選手トークショーが板に付いたはなPさん。
早速,フミヒロ登場。
観客からの「フミヒロさん」「15年間」「おつかれさまでしたー」
という声に迎えられたフミヒロ。
引退するか現役を続けるか,いろいろ迷った中で引退を決断したわけですが,
終始穏やかな表情で話をしてくれました。
トークショーのテーマとして用意されていたのは5つ。
まずは,フミヒロの代名詞となった「シドニーオリンピック」について。
フミヒロにとって,ヤクルト古田の代役を任されることになり重圧を感じていたこと,
そして,プロとして初めてアマチュア選手と合同のチームとなったにもかかわらず敗退してしまったこと,
結果,もう日本に帰れないという悲壮感を持ったほど思い出したくもない苦いものだったという話をされてました。
また,当時中日の星野監督から「シドニー」と呼ばれていたことについては(Wikipediaにも書かれてますが),
勝手にマスコミが書いたもので,真っ赤な嘘だということ。
「だから,これからはシドニーと呼ばないでください」
とのことでした。
ただ,オリンピックでは,プロとして長い試合戦い続けることと違って,
本当に高校野球の甲子園のときのように,1試合が絶対負けられないという戦いをしたのは大きな経験だったという言葉も。
正直,プロでは長丁場の中で,ここでは負けても仕方がないという場面もあるそうです。
特に当時はクライマックス・シリーズも無かったわけですし。
続いて2つ目のテーマは「交流戦」
2002年オフに中日から近鉄へトレードで移籍後,2003年は開幕3戦目にオリックス小倉からホームランを放つもわずか12試合の出場,
2004年はケガもあって1試合も1軍出場がなく,近鉄とオリックスが球団統合した2005年も2軍調整が続いていた中,
交流戦の開幕戦に,当時の仰木監督は鈴木郁洋をスタメンに抜擢。
野球人生の転機だったと本人は語っていました。
正直,当時は不振とケガが続いて野球を続けられるかどうか,この先の人生について考えるほどだったそうですが,
そんな時期に,ちょうど交流戦が2005年から始まったこと,
しかも,3位争いをしているチームとしても大事な局面で,交流戦の開幕で古巣の中日が対戦相手だったこと,
セリーグを熟知しており,特に古巣相手だったからということでチャンスを与えた仰木監督がいたということ,
こういうタイミングが重なったという話をされていました。
特に仰木監督の存在は大きかったということです。
調子が落ちているときに,偶然にも調子を上げてくれる人にめぐり合えたことが,
何よりも成績の良いわけではない自分を,15年も続けさせてもらえたのではないかと。
また,来季からはコーチとして,特に2軍の選手を相手にするわけですから,
チャンスが巡らない選手の気持ちもわかるだけに,そういう選手の良さを見つけたり,
チャンスが巡ってこなくてもしっかり準備を整えられるケアをしたいと。
次のテーマは「いけめん」
Wikiにも「プロ野球選手になっていなければ,ファッションモデルになっていた」と載っている話ですが,本人は一度も言ったことがないそうです。
オリックスには伊藤や齋藤など,イケメンキャッチャーが多いですね,って話も。ヨコヤマ(笑)
しかし,テーマから少し外れますが,2011年シーズンではご自慢の顔が傷ついた話題に。
試合前のシートノック中,思いも寄らぬ方向からボールが飛んできてピンポイントで鼻に当たってしまい骨折。
かなり出血もひどく,血が人工芝の上で水溜りのようになっていたほど。
ベンチ裏へ担ぎ込まれ,本人もさすがにこれは・・と思ったものの,スタメンが決まっていただけに,
なぜか「いけます」とコーチに直談判してしまったということでした。
出場できるかどうかを最後に問いただした岡田監督は,
いくら骨折しようとも出場を続けようという姿勢に満足したらしく,満面の笑みを浮かべてたそうで。
そういえば今季引退した阪神の金本選手が骨折しながらも出場を続けたことは有名ですが,
その時の監督も岡田さんだっただけに,そういう姿勢は好きなんでしょうね。
ただ,負傷の状態を相手のソフトバンクの選手も見ていただけに,川崎宗則をはじめ打席に立つ選手全員に心配されながら出場を続け,
結局その試合はオリックスがサヨナラ勝ち。
サヨナラの瞬間は,いつも先頭でサヨナラ打の選手へ水をかけにいくフミヒロもさすがにベンチから立ち上がれず,
負傷したときのボールを投げてしまった山崎浩司選手に肩を担がれながら
「ほんますんませんでした,すんませんでした・・」と何度も謝られていたとのこと。
その試合後に病院に行くわけですが,鼻を手術しなければ鼻が曲がった状態になってしまうと言われて手術を決断。
しかし,手術中に全身麻酔をすれば2~3日入院しなければならないと言われ,明日の試合にも出るために麻酔を断ったそうです。
それが,鼻の中に棒を2本突っ込まれ,強制的に元の位置に戻すために再び鼻の骨を折り曲げるというもので,
看護士数人に押さえつけられ,医師が馬乗りになりながら,涙を流しうめき声を上げながら手術をしたという壮絶な経験を語られました。
手術を終えたのが明け方4時ごろ,そして次の日の試合にも出場したのですから,
試合に出場することの大切さ,こだわり,そしてプロ根性というのは凄まじいものです。
4つ目のテーマは「激突」
フミヒロがマスクを被っている試合は,激しいクロスプレーが多いイメージがありました。
確かにフミヒロが細い体だけに,ホームに突進してくるランナーも吹き飛ばしてやろうと必死に走ってくるのはフミヒロも覚悟していたようです。
ただ,いくら激しく吹き飛ばされても負傷交代にはならないイメージがあります。
それでも,昨年のブラウンのプレーは激しく,その直後は出場を続けたものの,
さすがに迷惑がかかることを承知で途中交代してもらったわけです。
後で聞いたらブラウンは元アメフト選手だったということで,それでかと。
首や腰に持病を持ってるだけに,吹き飛ばされた直後はしびれで感覚を失い,徐々に痛みがわかってくるそうですが,
その痛みで立ち上がれなくなったのが守備を終えてベンチに戻ってきた直後,バッターボックスに向かわなければならないという時。
すでに太ももを強く蹴られていたために足が動かなくなったのだそうです。
最後,5つ目のテーマ,それは「キャッチャーとは」
大げさかもしれませんが・・
キャッチャーとは,自分がサインを出さなければ試合が動き出さない,試合を任されてるポジション。
キャッチャーとは,ホームを守らなければならない,点を失えばチームは負ける,だからチームの全責任を負うもの。
それだけ,ポジションの大変さ,そして責任の重さというものを感じていました。
「『ホームを死守する』とよく言いますが,キャッチャーとは,
本当に命を張って試合に出るものだと思っています」
最後に,来季からコーチとして,伊藤・齋藤・横山はじめ,まだまだ若い選手ですから,一軍として試合に出続けることについて,
多少のムチャを承知でいろいろ言うかもしれないけど,精神的なものも鍛えていければと。
そして,オリックスのキャッチャーは他チームから見て嫌がられるようになるように,指導していきたいという豊富も聞くことが出来ました。
意外とコーチの仕事も大変みたいです。
ずっとノックやったり球拾いやったりと準備から手伝わなければなりませんので。
ノックは練習しなければと。
ファンからの質問コーナー
<Q1>15年間いろんなピッチャーの球を受けてきた中で,一番凄いと思うのは誰ですか?
<A1>一番に挙げられるのは金子千尋投手です。彼は,野球をする上での頭がいい。
もちろん球が速い,コントロールが良い,球種が豊富ということもありますが,
一番はこちらが考えている打ち取り方のイメージまで理解して投げてくれる。
たとえば,ランナー1,2塁という場面で4番のホームランバッターを迎えたとき。
こちらはフォークボールを初球に要求したわけですが,これは空振りを取るフォークではなく,
芯を外させた上でゴロを打たせて併殺に仕留めたいという意図があった。
それを彼は感じ取って絶妙に相手にバットを振らせて芯より下に当てゴロを打たせる,
そして1球でピンチを切り抜けるということができるピッチャーです。
<Q2>今年のドラフトで伏見選手,原選手と2名の新人キャッチャーが入ってきますが,どのように育成しようとお考えですか?
<A2>まだ彼らのプレーを見ていないので何とも言えませんが,一番はプロの試合数の多さについていけるだけの体を作ってもらうこと。
ただ,伊藤・齋藤・横山を筆頭にキャッチャーは若手を中心にいますが,新人も含めて横一線だと思っています。
<Q3>小さい頃,憧れていたプロ野球選手はいますか?
<A3>実は申し訳ないんですけど,これという選手がいないんです。
福島県の小さな村の出身で,あまりプロ野球そのものに興味がなかったんです。テレビでは巨人戦しか映りませんでしたし。
最後にサイン会の抽選。
サインには,最後の#44を書かれていました。
以上です。
フミヒロさん,選手として本当におつかれさまでした。
プロ野球とは,有名な一流選手とフミヒロさんのような横一線で勝負をしている選手が共に出場して試合をしているもの。
私は2000年までオリックスが強かったのは,イチローがいたからだけではなく,高橋功一という脇役の選手もいたからだと思っています。
あまり有名ではありませんでしたが,主力の誰かが故障したり不振になると先発でもリリーフでも出てきて投げていた,
しかもハンパじゃないくらい投げ続けていました。
最後は肩を壊して,いつの間にか消えていった選手です。
それでも,そういう選手もチームを支えている,だから投手陣が安定していたし強かったということを忘れてはなりません。
オリックスはDHを含めて10人強いヤツがいればいいという野球ではなく,70人の全ての選手の利点を理解して戦えば強くなると信じています。
特に,若手が多く,不安定で力関係は横一線なチームであるからこそ,お前は必要なのだという意識を植えつけて欲しい,
そんな役目を影で苦労してきたフミヒロコーチに期待しています。
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お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
今でも野球に対する情熱をひしひしと感じます。
そんな息子は本当に幸せです。
実際に,プロの一線でプレーした人の考え方を,
その人自身の言葉で聞くのは重みがありますね。
今回のトークショーでも,そう思いました。