何もしなければ、ただの1日として過ぎ行く今日。
何もしないわけにはいかないと、会社を抜け出して三宮へ駆け出しました。
大阪駅を8時半に出発する新快速。
今日に限って急用に呼ばれたり社内接待などで、関西にいても今日が別段特別な日ではないことを感じる中、
私用を申し出て抜け出し、この電車に乗ることが自分の力では精一杯でした。
大阪~三ノ宮間の所要時間20分の新快速も、雪や帰宅ラッシュの影響で7分遅れ。
もはや電車も安全運転最優先でなんとか8時57分に三ノ宮駅到着。
息を切らして東遊園地に到着したのがジャスト9時。
ちょうど灯篭の消灯アナウンスが流れているところでした。
息を切らしながら、会場内に駆け込んできたのも束の間、
分担作業で1,2分のうちに約半分の灯が消えていきました。
まだ灯が残っていた灯篭。
たぶん、もう「1.17」の日に、意識的に振り返らなければ、
当時の様子も、あのときの押し寄せる感情も沸き起こらなくなったのは、17年という歳月を経たせいでしょうか。
それは、あのとき、本当に自分自身が不幸な目に遭ったり大切な人を失ったり、していないからなのかもしれません。
本当に辛い思いをした人は、この出来事を思い出したくもないと言っていましたし。
震災以降、神戸港の地位も低下し、経済も低迷して、厳しい現実はあります。
神戸と一緒に歩んで行くはずだったオリックスも、名残として試合を残すものの
ほぼ撤退した状況で、もうあの頃に戻れないことに寂しさを感じずにはいられないものです。
でも、私が育った神戸の町は生き残り、
今も山と海に囲まれた美しい町として、出身者は誇れる状態に戻りました。
神戸阪急や新聞会館、ダイエーの電気館など、中学生までに歩いたいろんなところが、
あの地震でなくなったけれども、生まれ変わっても神戸の町らしさは変わらずにあります。
神戸長田・板宿出身のガガガSPの「NAGATOWN」
私も彼らと同い年で同じ出身というのもあるのですが、
「育った町や自分を肯定していこう!」という歌詞に共感するようになったのは、
あの頃中学生だった自分が社会人として10年が経過し、歳月とともに私も年を取ったからなのかもしれません。
そして、こちらは、「3.11」昨年の東日本大震災への追悼も込められた灯篭が。
終了時刻である午後9時を過ぎても、1箇所だけ東北に向けたメッセージブースが開いていました。
私も、ルミナリエのときと同様、何かひとつだけ言葉を残してみました。
もう時間がないし、ここはオリックスファンらしく、黄色い字で「顔晴れ!」と一言。
金子千尋投手が発した言葉のパクリですが、
逆にもっと広まって欲しいという思いもあったので(言い訳)。
メッセージボードの上で、もさもさ葉っぱを食らう兎。
これからも、神戸が歩んできた復興の手順や、防災への備えの教訓云々はありますが、
(わずか0.1%の発生確率と言われていた活断層型の直下型地震も起こり得るということ等、
阪神大震災を機に地震動の予測や耐震基準が大きく変わったのは確かですが、
まだ東日本大震災に対応しきれなかったなどの話はありますけど、それはそれとして)
東日本大震災で被災された方々や、無惨な姿となった故郷に心を痛めた人たちが、
将来に希望を持っていただくよう、願わずにはいられません。
(あのときの仰木彬の笑顔とイチローとネッピーのガッツポーズは神戸の象徴でした)
そして、5分も経たないうちに、すべての灯篭が消され(相変わらず帰り支度は早い!)
「また来年、お会いしましょう」というアナウンスが。
私は今日、せめてもの、これからも継続してほしいこのイベントの来客になれたかどうか。
自分にできることは、ただそれだけですが。
いや、でも自分の仕事をしっかりして、毎日を大切に生きます。
また来年、ここに来るよ!
遅刻せんように・・。
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お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
何もしないわけにはいかないと、会社を抜け出して三宮へ駆け出しました。
大阪駅を8時半に出発する新快速。
今日に限って急用に呼ばれたり社内接待などで、関西にいても今日が別段特別な日ではないことを感じる中、
私用を申し出て抜け出し、この電車に乗ることが自分の力では精一杯でした。
大阪~三ノ宮間の所要時間20分の新快速も、雪や帰宅ラッシュの影響で7分遅れ。
もはや電車も安全運転最優先でなんとか8時57分に三ノ宮駅到着。
息を切らして東遊園地に到着したのがジャスト9時。
ちょうど灯篭の消灯アナウンスが流れているところでした。
息を切らしながら、会場内に駆け込んできたのも束の間、
分担作業で1,2分のうちに約半分の灯が消えていきました。
まだ灯が残っていた灯篭。
たぶん、もう「1.17」の日に、意識的に振り返らなければ、
当時の様子も、あのときの押し寄せる感情も沸き起こらなくなったのは、17年という歳月を経たせいでしょうか。
それは、あのとき、本当に自分自身が不幸な目に遭ったり大切な人を失ったり、していないからなのかもしれません。
本当に辛い思いをした人は、この出来事を思い出したくもないと言っていましたし。
震災以降、神戸港の地位も低下し、経済も低迷して、厳しい現実はあります。
神戸と一緒に歩んで行くはずだったオリックスも、名残として試合を残すものの
ほぼ撤退した状況で、もうあの頃に戻れないことに寂しさを感じずにはいられないものです。
でも、私が育った神戸の町は生き残り、
今も山と海に囲まれた美しい町として、出身者は誇れる状態に戻りました。
神戸阪急や新聞会館、ダイエーの電気館など、中学生までに歩いたいろんなところが、
あの地震でなくなったけれども、生まれ変わっても神戸の町らしさは変わらずにあります。
神戸長田・板宿出身のガガガSPの「NAGATOWN」
私も彼らと同い年で同じ出身というのもあるのですが、
「育った町や自分を肯定していこう!」という歌詞に共感するようになったのは、
あの頃中学生だった自分が社会人として10年が経過し、歳月とともに私も年を取ったからなのかもしれません。
そして、こちらは、「3.11」昨年の東日本大震災への追悼も込められた灯篭が。
終了時刻である午後9時を過ぎても、1箇所だけ東北に向けたメッセージブースが開いていました。
私も、ルミナリエのときと同様、何かひとつだけ言葉を残してみました。
もう時間がないし、ここはオリックスファンらしく、黄色い字で「顔晴れ!」と一言。
金子千尋投手が発した言葉のパクリですが、
逆にもっと広まって欲しいという思いもあったので(言い訳)。
メッセージボードの上で、もさもさ葉っぱを食らう兎。
これからも、神戸が歩んできた復興の手順や、防災への備えの教訓云々はありますが、
(わずか0.1%の発生確率と言われていた活断層型の直下型地震も起こり得るということ等、
阪神大震災を機に地震動の予測や耐震基準が大きく変わったのは確かですが、
まだ東日本大震災に対応しきれなかったなどの話はありますけど、それはそれとして)
東日本大震災で被災された方々や、無惨な姿となった故郷に心を痛めた人たちが、
将来に希望を持っていただくよう、願わずにはいられません。
(あのときの仰木彬の笑顔とイチローとネッピーのガッツポーズは神戸の象徴でした)
そして、5分も経たないうちに、すべての灯篭が消され(相変わらず帰り支度は早い!)
「また来年、お会いしましょう」というアナウンスが。
私は今日、せめてもの、これからも継続してほしいこのイベントの来客になれたかどうか。
自分にできることは、ただそれだけですが。
いや、でも自分の仕事をしっかりして、毎日を大切に生きます。
また来年、ここに来るよ!
遅刻せんように・・。
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お時間とお気持ちに余裕がありましたら・・。
自分が他人に対して何かプラスになることをできているかということを最近考えさせられます。
30を超えても、まだまだ私は不完全なままです。
立派な大人になってください。
自分は95年の3月生まれですのでまだ母のおなかの中でした。
地震を直接体験してませんが毎年この日が来ると、何かを感じます。
阪神淡路大震災と東日本大震災の犠牲者の方のご冥福をお祈りします。
改めて、この言葉しか今は思いつきません。
大人になっていくと色々感じるんだろうと思います。