カサカサの感想ハダで備忘を保てるか

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『有頂天家族』の雑談(その3)

2013-11-20 22:00:00 | 有頂天家族
○偽叡山電車


個人的に、原作でもアニメでも両方とも一番感じ入ったのが、偽叡山電車の痛快さと次兄矢二郎が思い出せないでいた、父総一郎から聞いた最後の言葉を思い出すシーンである。

原作は読み進める目もページをめくる手も止まらないし、アニメも食い入るように観た。

矢二郎が父の言葉を思い出す瞬間は、アニメは原作の描写と若干違っている。しかしそれが功を奏しているように思えてならない。

原作の様子をたどってみると、父の言葉を思い出したあとで偽叡電は再び走り出して、原作にもあるように二条通りを越えて狭くなった寺町通りを疾走し、「信号機が青なのを良いことに」アーケードへ突っ込んでゆく。

アニメでは、二条通りを過ぎて、原作の描写を再現するように「南へひた走る」。そして父の言葉を思い出して停車するのが寺町御池の交差点である。

実際に二条通と御池通の間の寺町通りは車一車線分程度に狭く車両は北向きの一方通行になっている。

どうでも良い話だが、私は車で市内を南西方向から左京洛北方面へ向かう時は御池から寺町の一歩通行へ入って北上している。河原町通りや川端通りへはあえて出ない。

一方、御池通りは戦時の(だったか?)拡張計画で大きくなった随分広い道路で、交通量も多い。アニメでは信号機の色など出ていなかったが、寺町の横断歩道で御池通りの信号待ちをしている感覚と矢二郎がハタと停まってもの思いにふけり、再び走り出すまでの時間というのが、動く絵として見る分、京都の現実的な雰囲気とよく合っていた。

あるいは、動画という視点で見れば、一旦思いにふけってから狭い寺町を通るより、勢いに任せて狭い寺町に入ったほうが、一区切りの文脈としてはわかりやすい。
そして、偽叡電の疾走するスピード感に対して、感傷に浸る偽叡電の横で歩道を歩くお姉さんがスマホでゆっくり叡電の画像を撮る仕草に、時間の緩和が見て取れる。

アニメの偽叡山電車は、デナ21形という車両で描かれている。
インターネットで調べてみると、1928年(昭和3年)ごろ、京都電燈や鞍馬電気鉄道の時代につくられ、1995年(平成7年)のさよなら運転まで叡電に在籍した車両型ということだったので、姿を消したのは、実はそれほど大昔のことではない。

しかし、そうきたか、と思うほどのレトロ感が『有頂天家族』のいつの時代とも思わせないような感じを出している。
(しかし、出てくる携帯電話はスマートフォンである。)

Twitterの有頂天家族スタッフのつぶやきで、偽叡山電車は3DCGでいくか原画のままいくか迷ったが、結局レトロな質感を考えて原画のままアニメにしたとあった(と記憶している)。

味わい深い動画だったと思う。

(ひとまず終わり)


叡山電鉄で行われた「えいでんまつり」では「有頂天家族」のグッズを展示する一角が設けられ、偽叡山電車のぬいぐるみ(編みぐるみ?)も飾られた。(2013年10月26日撮影)





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