アニメ「有頂天家族」の放映が最終話まで終わって、もうしばらく時間が経つ。
とにかく楽しかった。
アニメ放送前からは予習のつもりで原作を読んでいたが、アニメ化されたそれは、原作の面白さをそのまま伝えていたように思われて、個人的にはとても満足であった。
アニメ化されたものは、その描き方が原作そのままとはいかない部分もあり、その独自の演出がアニメで見ると楽しさ面白さを引き出していたと思う。
こうしたクロスコンテンツでの差異のようなものを感じ取りながら視聴したことは、自分ではあまりなかったので、備忘も兼ねていくつか書き留めておこうと思った。
文章が今更に成ったのは、忙しさにかまけて単にサボっていただけで、熟考や推敲を重ねた上での文章ではないことを予めお断りしておく。
○原作の面白さ
原作の面白さは、ほとんど文芸を読まない私があれこれ述べるのもおこがましいことである。
原作の文庫版には末尾に劇団「ヨーロッパ企画」の上田誠氏の解説が載せられている。
その中に『有頂天家族』は筆が滑っている、という表現がみられ、私にはそれがとてもしっくりといく表現であった。
ひとつの話に説明が加わるとき、それはどういう経緯かといった話が始まるが、その話がそれ自体面白く、「この話はいつまで続くのだろうか」と思うほどに長い。
本題の話から横道に逸れて、そっちの方が楽しいものだからいつまでも続いてしまう、そういう部分がいくつも出てくる。
そこは完全に作者がこういう話にまとめようという初めからの計算ではなく、小説の中のキャラクターがひとりで動き出している世界であり、作者の森見氏はそれに付き合って筆を走らせているだけのような流れ方に感じられる。
例えば、TVアニメ第6話「紅葉狩り」で、淀川教授が狸を食べるということについてずっとしゃべっているシーンがある。
これ、原作でもずっとしゃべっている。
原作を読んでいない人がアニメで初めて「有頂天家族」に接したとき、13話の構成の中で天狗でも狸でも弁天様でもない(キーになる重要な人物だけれども)脇役といっていい人物がこれほどまでにしゃべくるというのは珍妙に思うだろう。
しかし、そこが原作を先に知ってアニメを見た側にとっては、楽しめるポイントのひとつであったように思う。
もうひとつ、筆が滑っていたような気分を「味わえる」例を挙げると、物語のクライマックス、下鴨一家が夷川の手に落ち、そこから夷川の悪事の露呈と一件落着までの大きなストリーム。
これも原作を字で追っていると、事件の顛末が森見氏の頭の中に最初からあるようには思われなかった。
とりあえず成り行きで筆を滑らせ、何かそれっぽいきっかけが出てきたら、ここぞとばかりにどんでん返しを作ってめでたしとしよう、といったような、狸の振る舞いそのままにストーリーを書いていったのではないかと思えて仕方がない。
そこがまた楽しい。
(つづく予定)
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アニメの第1話では下鴨神社の古本まつりの看板が登場していた。(2013年8月11日撮影)
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とにかく楽しかった。
アニメ放送前からは予習のつもりで原作を読んでいたが、アニメ化されたそれは、原作の面白さをそのまま伝えていたように思われて、個人的にはとても満足であった。
アニメ化されたものは、その描き方が原作そのままとはいかない部分もあり、その独自の演出がアニメで見ると楽しさ面白さを引き出していたと思う。
こうしたクロスコンテンツでの差異のようなものを感じ取りながら視聴したことは、自分ではあまりなかったので、備忘も兼ねていくつか書き留めておこうと思った。
文章が今更に成ったのは、忙しさにかまけて単にサボっていただけで、熟考や推敲を重ねた上での文章ではないことを予めお断りしておく。
○原作の面白さ
原作の面白さは、ほとんど文芸を読まない私があれこれ述べるのもおこがましいことである。
原作の文庫版には末尾に劇団「ヨーロッパ企画」の上田誠氏の解説が載せられている。
その中に『有頂天家族』は筆が滑っている、という表現がみられ、私にはそれがとてもしっくりといく表現であった。
ひとつの話に説明が加わるとき、それはどういう経緯かといった話が始まるが、その話がそれ自体面白く、「この話はいつまで続くのだろうか」と思うほどに長い。
本題の話から横道に逸れて、そっちの方が楽しいものだからいつまでも続いてしまう、そういう部分がいくつも出てくる。
そこは完全に作者がこういう話にまとめようという初めからの計算ではなく、小説の中のキャラクターがひとりで動き出している世界であり、作者の森見氏はそれに付き合って筆を走らせているだけのような流れ方に感じられる。
例えば、TVアニメ第6話「紅葉狩り」で、淀川教授が狸を食べるということについてずっとしゃべっているシーンがある。
これ、原作でもずっとしゃべっている。
原作を読んでいない人がアニメで初めて「有頂天家族」に接したとき、13話の構成の中で天狗でも狸でも弁天様でもない(キーになる重要な人物だけれども)脇役といっていい人物がこれほどまでにしゃべくるというのは珍妙に思うだろう。
しかし、そこが原作を先に知ってアニメを見た側にとっては、楽しめるポイントのひとつであったように思う。
もうひとつ、筆が滑っていたような気分を「味わえる」例を挙げると、物語のクライマックス、下鴨一家が夷川の手に落ち、そこから夷川の悪事の露呈と一件落着までの大きなストリーム。
これも原作を字で追っていると、事件の顛末が森見氏の頭の中に最初からあるようには思われなかった。
とりあえず成り行きで筆を滑らせ、何かそれっぽいきっかけが出てきたら、ここぞとばかりにどんでん返しを作ってめでたしとしよう、といったような、狸の振る舞いそのままにストーリーを書いていったのではないかと思えて仕方がない。
そこがまた楽しい。
(つづく予定)
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アニメの第1話では下鴨神社の古本まつりの看板が登場していた。(2013年8月11日撮影)
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