yamatyan no blog

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

旅行・写真 大好き人間

H29.9.28 26・27日 美食三昧

2017-09-28 14:57:49 | 日記
 26日「桜木シニアアクラブ」の旅行 簡単に云えば 「老人会」の旅行 43名で茨木の阿字ヶ浦へ 宿は お粗末 だったけど 食事は豪華 飲めや・唄えや で大騒ぎ  翌27日は笠間稲荷 そこの「狸庵つたや」のミニ天丼・そば ここの「そば」は美味・美味  今回の旅行は 「飲食三昧」でした。



    

           

H29.9.16  大宮西口 賑わいの街

2017-09-16 14:56:27 | 日記
 大宮西口活気ある街作りにしようと 地元有志が取り組み16・17日駅前通りで催された。生憎の空模様 当初は「鐘塚公園」だったが、今にも降り出しそうなので 急遽 駅前通りになる。日頃贔屓にしている「中津 唐揚げ ぶんごや」出店しているので見に行く。幸い繁盛していたので「ナポリタン」を作って貰い帰る。



         




H9.9.29. 残 暑 見 舞 い

2017-09-09 10:37:43 | 日記
 8月中旬頃 小学校4年の孫から 「残暑見舞い」 のハガキが届いた。思いがけない「便り」だったので 嬉しくなった。きっと先生が「書き方指導」して下さったので 書いて出したのだと思う。この先生の指導法に感謝します。 序に「暑中見舞い」と「残暑見舞い」について調べてみました。

 ■1.残暑見舞いを出す時期・残暑見舞いの時期
 いつからいつまで?
7月初旬、梅雨明けの声が聞かれるようになると本格的な暑さが到来します。この時期に出すのが暑中見舞い。文字どおり最も暑い季節に出すのが暑中見舞いです。
そして、暑中見舞いの時期を過ぎたら残暑見舞いを出します。暦の上では秋なのにまだ暑さが残っているという意味で、残暑見舞いとなります。

下記の表に、二十四節気の一部をご紹介していますのでご覧下さい。
・暑中見舞い…小暑(7/7頃)〜立秋(8/7)の前の日まで。
・残暑見舞い…立秋(8/7頃)〜遅くとも8月末くらいまで

    

H29.9.1  関 東 大 震 災

2017-09-01 10:31:45 | 日記
  今から100年弱前に起こった 関東大震災について

  

1931年(昭和6年)に開学した大阪帝国大学(現・大阪大学)
神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。
大震災と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では焼死が多く、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い[6]。本災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み[7](風害参照)、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)等で、火災が広範囲に発生したためである。
この災害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本において、史上最大級の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲に渡る災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、帝都を直撃して国難に及ぶことから、国(大日本帝国)も対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が8月24日(発災8日前)に急死していたため、発災から内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が首相就任(なお、大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。
金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた[注釈 3]。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった[8]。引受にはロスチャイルドも参加した[9]。金策には森賢吾が極秘で奔走した。
日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また、震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)行われた金解禁[10]はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止[11]にされた。
なお、本災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始[12][13](円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まると共に、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[13]。電話の自動交換機も普及した[14]。
状況[編集]
東京帝国大学理科大学教授寺田寅彦は、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。
T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。
主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
— 寺田寅彦、『震災日記』