東洋占術の世界観

心が空っぽになってしまった誰かが、ここに心を置くことが出来たなら
それ以上に嬉しいことなどない。

【東洋占術の世界】余談

2023-06-11 18:26:28 | 日記

通っている算命学の教室では若い先生の師事を受けているのだが、どうも相性が悪いと感じていて、

また独学のみの習得にしようかと思っていた。

しかし、今日の授業で全ての思惑が消え去った。それほどに素晴らしい授業だった。

長年私が煎じ詰めてきた『無』について、

先生はかなりの核心に迫る発見をくださった。

結論から言うと、先生は何の理屈も濁りもなく『無は無限だからね』と言い放ち、そのふとした言葉に私はぼーっと突っ立ってしまったのだ。

先生は私とは違い、広い範囲の見識を浅く説明する器用な方で、最初の授業ではあまりに大衆向けな説明に先行きが不安になったものだ。

先生はどこか受け身で、思考よりも感覚を優先しているように思えた。

私はどちらかというと狭く深く思考を掘っていく不器用なタイプなので、深く根を張る事はできるが、思考の連鎖により直感的、動物的な勘がなくなってしまった欠点がある。生粋の現代人だ。

私はどうも『無』を理屈で考えてしまい、上手く消化できなかった。

というのも私は、宿命全てが『無』になっている宿命全中殺であり、それに該当するものは無として生きなければならないという教えを受けたからだ。

『無』『空』『零』

様々な言い方があるが、私は導かれているのかと勘繰るほどにこれらのコンテンツに出くわす事が多い。

生まれた時から信仰心の厚い仏教徒の祖母のもとで育ち、祖母の毎朝の般若心経が児童である私のアラームだった。

 

祖母は九星気学を信じており、高島暦でよく私を見てくれた。ちなみに般若心経は悟りの境地に至るための『無』を説いたお経である。

文中にもある『色即是空』は『万物の本質は空』であると言っていて、生まれた時から365日毎朝それを聞いていたと思うと、やはり無に縁があるとしか考えられない。

ある時はこのような帯の本を見かけてしまう。

“一度空にしないと新たなものは入ってこない“

その一文に、ふらふらと行くあてがない足取りはピタッと止まってしまった。

そこで今日の授業につながる。

授業内容は格星の性質についてで、今日は『禄存星』の説明でした。

この星の意味は、今風に言えば“インフルエンサー“であり、算命学的に言えば“引力本能“

“回転財の星”“である。

引力とは惹きつける力であり、インフルエンサーにとっては最も重要な才能と言ってもいい。アイドルや実業家にもこの星を持つ者は多い。土は石も砂も岩も何もかもが集まった集合体であり、木も水も自然の全ては母なる大地と繋がっているのだ。

土性の陽=禄存星(偏財)、土性の陰=司禄星(正財)であり、

名前の通り大胆で大きくお金を動かす回転財の禄存と、庶民的でコツコツお金を貯めてやりくりする司禄では同じ財星でありながら意味合いが真逆だ。

家庭的で何事も堅実に積み重ねながら安定を得る、まるで理想の奥さんのような司禄星だが、

その活動範囲は狭く、あくまで自分と近しい間柄までに止まる。対して禄存星の活動範囲は広く大衆的であり、経済を大きく回していく。またこの星々については深く説明するつもりだ。

そこで下のノートを見て欲しい。

禄存星は、基本的に『空』を良しとするようだ。

というのも、禄存星は引力本能なので沢山の愛やお金、評価を必要とする。だからこそずる賢い思惑や汚い手を使ってしまう者が多く、その魂胆には承認欲求などのエゴが隠されている。陰転すると最も安っぽくなってしまう星でもあるのだ。

ではなぜ空が良いのか。理由は簡単だ。

先程の“一度空にしないと新たなものは入ってこない“と同じだ。空っぽのコップには水が沢山入るが、既に満タンのコップには新しい水は入らずに溢れてしまう。単純なことだ。

基本的に自我、エゴがなく大人しい人というのはどんな人にも話かけられやすく、その人達の色に染まる事が多い。しかし我が無いからこそ多くを取り込む事ができ、否定も肯定もせず、すんなりと相手を受け入れられる寛容さを持つのだ。そういった人は多くの友人に囲まれているのをよく見る。

私はそれはそれは自我の強い人間でして、自己主張の強い自己中のせいかあまり人が寄ってこなかったが、だからこそ相手の入る隙がなかったのだと思う。『自分』で埋め尽くされている私は、人に弱みを握られるのが怖くて、他人が自身の心に介在することを拒んでいた。
しかし友人は私とは真逆で、何の濁りもない真っ白な『無』そのものだったので、多くの人が彼女の心にすんなりと入ることができた。

多くの人は彼女に心を掴まれてしまったのだ。自身が彼女を埋め尽くすつもりが、彼女のその真っ白な吸収力に身まるごと吸収されてしまったのだ。

空っぽだからこそ禄存星は輝くのかもしれない。

ところで私にその『禄存星』があるかと聞かれたら、禄存どころか司禄もない財星が0の自我の塊野郎なのだ。

そうか、私には人を惹きつける力はなかった。今後もずっと貧しくお金に恵まれることはないのだろうなぁと悲嘆した。

そんな時、先生はホワイトボードにこんなことを書いていた。

これは占術を勉強する際は玉堂的な学び方が良いですよーといった表であり、龍高星を否定しているものではない。

この星々は習得の星で、玉堂星が平面の座学ならば、龍高星は立体的な現場主義の習得である。

天才には龍高星が多く、イノベーションを起こす革命児でもあり、発想の転換の凄まじいたるや。しかしその反面、物事を自分なりに改良してしまいがちで、正統に学ぶというよりかは浅く広く、在野的な習得となる。先人達の文化を破壊する代わりに、革新的な新しい創造を促す。無駄の多い非効率の環境や、古くからのしきたりが続く悪風に染まった世界の住人にとって、それらを改新する龍高星はまさにヒーローそのものだ。

対して玉堂星は物事をきれいにそのまま吸収する。先人達に尊敬の念を抱き、言われたことをそっくりそのまま反映する。

本は先人達の知恵の宝庫であり、玉堂星は読書しかり、何をするにも必ず平面的な説明を取り入れてから行うのだ。行動を伴わないので理屈っぽく不器用なタイプが多いが、流動的な龍高星とは違い、狭く深く、一つ一つをゆっくり時間をかけて習得していく。

上のノートには五行説による星の循環がまとめられている。木火土金水の順に、自然の流れで星が循環しているのだ。

玉堂星的(狭くて深い)知識は、貫索星(確固な信念)を生み出し、

調舒星(孤独)となり、禄存星(広い世界)を生み出していく。

反対に、

龍高星的(広くて浅い)知識は、石門生(柔軟な信念)を生み出し、

鳳閣星(安定)となり、司禄星(狭い世界)を生み出していく。

と先生は説明した。

私は何に対しても玉堂星的な考え方で挑んでいるが、その分大衆性に欠けている。しかしこの循環方法から考えると、

個人的な世界が、いづれ大衆的になると言われているようなものだ。

先生は『孤独の時間は必要』といった。身寄りのない常に孤独な自分は嬉しかった。が、、

『しかし先生、私には禄存も司禄もないんです。お金に縁がないんですね』とこれまた本音をポツリ。

すると先生は、全く悩まずにすぐさま『0は無限大だよ』といったのだ。

『下手な中途半端にある攻撃本能よりも、0の引力本能の方が振り切れて逆にありすぎるのかも知れないね』

『13とか26みたいに限られていない、0』

深い深い深すぎる!!だから学ぶことをやめられないのだ!!誰も行きついていない奥底の真理にたどり着いた時の感動たるや!!

これに関して、つくづく、無と有は表裏一体だなぁと思うのです。空っぽだからこそ水は入ってくるのと同じように、

何もない真っ暗な底知れないエネルギーからこの世を生み出したように、

0は完全そのものなのだろう。

行きすぎたものはやがて真っ逆さまに振り切れる。まさに陰陽である。

この些細な談笑に、全中殺で引力が0な私は心から救われたのだ。

無いからこそ、有るのだ。

かなり長くなったが、たとえ今破壊の時期にいたとしても、空っぽだとしても、

それは満たされる未来のためであって、再生のための底知れないエネルギーそのものなのだと思う。

 

 


【東洋占術の世界】天中殺について

2023-06-04 19:15:17 | 日記

【東洋占術の世界】番外編

★天中殺について

まだ勉強中の身である自称陰陽師の私だが、仲の良い友人たちから最近相談を頂くようになり、勉強した成果を随所で発揮できるのでとても有り難い限りです。

知り合いの数名が来年から天中殺期間に入る事もあり、軽く天中殺についてまとめたい

、の・・だが・・・

未だ最も重要な算命学体系の中の、天中殺の項目までたどり着けておらず・・・

国会図書館にて体系の一巻から著作権の範囲内でコピーしながら勉強し続けているのだが、古い本なので文体がかなり難しく、読むのに時間がかかる。

中心が玉堂星の私としては、悠久の時を経て多く賢人たちが遺したこの学問を、正式に習得せず、自身で改良して誰かに伝えるのはひどく道を逸れたような思いに駆られてしまう。

算命学体系はそれほど価値のある文書であり、それを抜いて説明するというのは、基本の足し算引き算を習得せずに連立方程式を説明するといったような感じだろうか。。。

しかし私は一昨年まで二年間ほど接木運中の天中殺期間(辛い時期の重なり)でして、それはそれは本当に苦しい日々を過ごしたのだ、、

その経験は嘘ではないので、経験として語ることくらいは大丈夫だろうか・・・。

天中殺中は不安定な所為もあってか、その時期に始めた交際や結婚、仕事などはうまくまとまらないとされるが、

私も天中殺中に育んだ友情や愛情は年が明ける前にもろとも崩れ、仕事の面でも人間関係でも、ことごとく破壊現象が起きた。

たかが占い、されど、人の道を簡単に変える事ができてしまう見えない力なので、、やはり、天中殺については特に慎重にまとめたい。

前置きが長くなったが、私の二年間の経験談と未だ少ない知識を惜しげもなく搾り取っていきたい。

 

★天中殺とは?

…天に殺すと書く禍々しいこの響き。四柱推命では“空亡“と称する。どちらにしても、天(神)が無いという意味になる。きっと古代人は、天中殺があまりに絶望的な時期の為か、神などいない!と思ったのだろう。

一言で天中殺を語ることは難しいが、簡単に言えば『無』である。

本来ならばあるはずの天と地、ここからここまでといった枠がなく、まるで宇宙空間を漂っているかのよう。

陰陽とはこの世のエントロピーの流れのリズムであり、吸って吐いての呼吸や、寄せては返す波のように、必ず静と動があることを指すが、

自然も永遠に寒期といったことはなく、万物は諸行無常に陰陽を繰り返していいく。

時間とは変化であり、陰陽もまた、変化そのものである。

天中殺とはいわば破壊の時期でもあり、再生を促すための破壊の時期とも例える事ができる。

天中殺という概念が生み出されたのは、基礎である十干と十二支を算出した60干支の余りの部分を『空(無)』とみなしたのであるが

60干支の部分の説明はやはり算命学大系を必要とする為、説明は割愛する。

下図は運勢のバイオリズムを植物の成長過程に表した。

ちょうど天中殺の部分は、11番目と12番目の植物が枯れてまるで冬眠のように停止している箇所に相当する。

これまでの10年間のツケの時期であり、これからの10年間を作る軌道修正の時期とも言える。

植物にも生と死があるように、人間の人生にも破壊がなければ再生もない。

よく天中殺は悪い事が起きると言われていて、細木数子は大殺界の時期に“あんた死ぬよ“みたいなことを言っていたが、、

相当馬鹿げているとしか言いようがない。

天中殺の意味を知れば、天中殺=悪とはならないはずなのだ。

私が思うに天中殺の時期とは“失敗すべき時期“なのだと思う。決して悪い時期なのではなく、人生においてある意味で機転となる必要な時期なのだ。

道教的に考えるならば、本来人間には行くべき道が自然と用意されているはずだ。相対性理論的に考えたら、もう自分の人生は決まっているのだ。

しかし、果たして多くの人はその『行くべき道』に気づいているのだろうか。

行くべき道を逸れている人は、天中殺期間に破壊現象が起きるかも知れない。

『道』とは『縁』であり、縁がなければどんなに想っていようが道は開けないが、

多種多様な人々のいる中で、生まれ持った才能(良い悪い関係なく)をどこまで出し切れるのか、どうやったら活かせるか、何に縁があるのかなどは、何度も試さなければ道は見えてこない。トライアンドエラーだ。

本当はやりたい事などないのに、周りがこうしてるから、楽しそうだから、、などといった理由で自分には縁がないのにそればかりにすがりついていると、天中殺は必死に繋ぎ止めていた縁をまるまる破壊してくる。

最近巷では『引き寄せの法則』などといった啓発本が流行っていて、

“引き寄せたいならば、なりたい自分になっている妄想をすれば絶対になれる!!“みたいなことを言ってる人がいるけれど、20年近くなりたい自分の妄想を続けてきた自分が、ことごとく失敗しているわけで、そんなものを信じる信者はただのyoutuberのお金儲け餌食と化しているとしか思えない。。

アイドルになれる妄想をすれば、果たして夢は叶うのだろうか??

平穏で平凡な性格の人が、芸能界を夢見たらその夢は叶うのだろうか?

某芸能人は算命学の命式が現実的で庶民的であった為か、彼は華やかな芸能界を引退して、命式通り望んでいた平凡な暮らしを手に入れた。

彼はその後芸能界とは縁が途絶えて、華やかな道は無くなった。しかし、彼の本来の行くべき道を見つける事ができたのだ。

もしかしたら、彼は行くべき道に行くまでに、何度もいろんな道を試して、その度にうまくいかず、失敗し続けていたのかもしれない。

それを思えば、天中殺の期間は至極必然であったとしか言いようがない。

よく天中殺の時期は動いたらダメ、とにかく大人しくいなさいと言われるが、

面白いことに人間不安になればなるほど、現状を変える為に行動してしまうので結局余計なことをして天中殺の思う壺になりやすい。

例えば普段なら抑えていた暴言を天中殺中に相手にぶちまけてしまい、離婚に至ってしまった、など。

動くなとは、昔の人が修復不可能にならない為に守りの姿勢を良しとした為であって、攻めて修復不可能になったとしてもそれはそれで天中殺のお咎めを受ける事ができるので、人生の学びになるのは確かである。

大失恋を経験した女性ほど、新たな恋を見つけた時の復活ぶり、再生振りは素晴らしいものがある。

“インシャ アッラー“というイスラム教徒の有名なお言葉があるが、

『神の仰せのままに』

自然に破壊せざるを得ないならば破壊し、再生を待てば良いのである。

我々はどこからきたのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?

人にはその人だけの“道“がある。

それは決して祝福されるような道ではない道の可能性もある。ある意味、次世代が幸福になるために戦争の時代に命を捧げた犠牲の人々もいる。

本来の道を歩むことを算命学では宿命の消化といい、地球のエネルギー循環で最も自然と言えよう。

天中殺中の真っ暗闇の行き先のわからない虚無の世界を抜けたならば、そこには新たな新鮮な世界があなたを待っていることでしょう。


【東洋占術の世界】陰陽五行説とは❷

2023-05-21 20:28:47 | 日記

【東洋占術の世界】

③陰陽五行思想とは

2、「五行説」とは

続いて五行の部分を見ていく。因みにこの部分で自然信仰の発生も見えてくる。

下図は五行を表したもの。

上から木、火、土、金、水(もっかどこんすい)と呼ぶ。

これらは地上にある目に見える全ての自然エネルギーである。風は目に見えず、電気はまだ発見されていない。

古代人は現代人とは違い、自然と密接な関係であった。農耕民族ゆえに、自然の変化は身を危めるもっともの要因であったに違いない。

古代人は何とかして神の意思を知りたいと願った。真意を知るためにはまず、自然を観察し、見定めなければならない。

時を経て、目に写る全ての自然界を眺めた時、存在する自然の万物には規則性があることに気づくのだ。

上図は矢印方向に生じていく。

木は擦り付けるなどして火を生み、

火は灰となり土に蒔かれ、

土を掘ると金(鉱物)が出てきて、

金、(岩石、鉱物)から水は生まれ、

(後付けのような気もするが、科学的にも岩石や金属鉄は水とかなり結びつきが強い性質のようで、切っても切り離せない関係性らしい)

太古、山々で暮らしていた人々は岩間や岩の亀裂から水が流れている様子を眺めていた事だろう。岩は自然に割れ、そのすき間は水の通り道になる。

また、金属の表面に水滴が出て結露する状態ともいえる。冬の窓ガラスに落書きをした事がある人ならわかる感覚だろう。

水は木を潤し成長させる。

これらは生ずる関係となり、算命学では「相生の関係」という。

自然界では、木のマッチ棒が火を生み、火が灰となり灰は肥料として土化する。鉱山の岩石含む土壌から金は取れる。

また土壌から石を取り、加工して鉄製の刀などの金属製品を生む。

鉄を含む金属の水道管から水は出てくる。また、水は地層を通って組み上げられ、硬い通り道を必要とする。

草木には水やりをして枯らさないようにする。

相生関係にはいくつかの諸説があるが、自然が循環するというより、自然の流れといったほうがいい気がする・・・

循環なのだとしたら、水は金属から発生する事になってしまう。実際地球創生の頃、水は岩石から生じたという説があるらしいから間違ってはいないのだが、生きている地上では循環はしていない。

しかし目に見える限り、古代人が捉えた自然の流れは、五行となって表されたのだ。

あくまで目に見える世界で、人間の意思、人為的な作動がないところで、木の枝が摩擦されたか否か自然発火して

人間はその火を起こすことを習得し、絶やさずに大切にしていたのだろう。古代人にとって火は寒さを凌いでくれたり、闇夜を照らしてくれる大事な道具であったはずだ。

山で遭難して飢餓状態の時、岩や崖から出てくる湧き水がどれだけ貴重だっただろうか。もののけ姫で、アシタカが途中湧き水で腕の呪いを清めるシーンがあるが、その水も岩から噴き出している。

古代人の生活の中で見える自然の流れこそ、五行説の真髄なのだ。


【東洋占術の世界】陰陽五行説とは❶

2023-05-21 02:59:53 | 日記

【東洋占術の世界】

②古代東洋の天文学

現代の占いとは、古代の科学である。

今占い師が使用している手相、四柱推命、九星気学、算命学などは全て古代中国の天文学から派生した暦術なのである。

算命学体系には

“西洋人の天体観測が天文学を生み、数学や物理学を発展させ、

東洋人の天体観測は天文学を生み、思想や占術、倫理学を発展させた。“

と綴られているが

本来科学には情緒は必要ないはずだが、古代東洋の科学である暦学には思想的な要素が内包されており、どこか倫理的である。

というのも、占術、暦術は古代において戦争に勝利するための兵法であり、且つ政治を見通すための道具でもあった。

孫氏の兵法といった軍学があるのと同様に、いわば処世術、人間学であり、哲学的な学問そのものだったに違いない。

古代には気象観測の技術が整っていなかった為に、今では迷信に近い占術に頼ってしまっていたのも自然の理と言える。

まとめると、東洋占術は哲学的で思想学に近いということだ。

東洋占術の最も根本となる思想に「陰陽五行思想」というものがあるが、それこそがまさに古代東洋人の思考の基盤となっていて、それを無視して東洋占術、文化を知ることは不可能である。

全てが集約していく先、大元にはいつもこの「陰陽五行思想」がある。

 

③陰陽五行思想とは

「陰陽五行思想と日本の民俗」吉野裕子【著】

この本は愛読書の一つだが、題名にある通り陰陽五行は日本の暮らしにも根付いている。

神道の世界でも「九重参り」という4ヶ月ごとにお参りをする伝統的な御作法があるが、九重参りは九星気学を参考にしており、その九星気学も含めて占術の殆どは陰陽五行思想がベースとなっている。節分に豆をまく理由も、ひな祭りも全てここからきている。

「青二才」「青春」といった日本語にも陰陽五行の色分けの影響が見受けられる。

これほどまでに陰陽五行思想は我々の文化に根付いているというのに、知らないままでいるのはちょいと悲しい。

陰陽五行思想とは「陰陽説」と「五行説」が自然と合わさっていった思想であり、片方ずつ説明する必要がある。

1、「陰陽説」

下図は陰陽マークで有名な太陰太極図

陰陽とは二元論である。

古代人は昼と夜、男と女、暑い寒いなど対立する事物により自然と二元論を生み出したと思われる。

時計のない古代人にとって、朝の光は体内時計のリズムを整える最も必要なものであったに違いない。街灯のない世界の夜は暗く、襲われる危険もあったから、朝の光が待ち遠しかっただろう。繰り返される明るい朝と暗い夜のリズムによって、自然と陰陽の概念を生み出していったに違いない。

この段階で注意したいのは、この思考法は暦術以前の思考法であり、占術作成よりもずっと前に作られているということだ。

ところで最も重要な二元論とは何だろう。天と地、昼と夜以外に忘れてはならないものがある。

それは「時間」と「空間」だろう。

何もなかった世界、宇宙から太陽系が生まれ、地球から大地が生まれ、木々が生まれ、複雑化していくことを考えると、最初は全てが集約されていた単純な「0」であったに違いない。

それを複雑化するにあたり、元々一つであったものをエントロピーの法則により二つ、三つと変化していくことから、

「二元論」は自然と人間の無意識化にあったのだろう。

何もない無から有が生まれたとすれば、最初の変化とは他でもなく「時間」と「空間」だろう。

時間が空間の運動によって生じると考えると、本来時間と空間はセットなのだ。

【例】

空間=有形=1

時間=無形=0

コンピュータは全て1と0で反映されているが、1は電気が通っている(有)0は電気が通っていない(無)ということになる。

このように分けることを総称して陰陽説と呼ぶ。陰陽も複雑化し、太陽少陽太陰小陰など細かくなっていく。

陰陽説は、複雑化し変化していくこの世には最も重要な土台である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【東洋占術の世界】まえがき

2023-05-21 00:23:05 | 日記

【東洋占術の世界】

まえがき

東洋占術を知るにあたり、心得がある。

それとは、現代人的な思考は一切なくしたほうがいいということだ。つまり古代人的な思考で物事を考えるということ。

そもそも、古代人のものの考え方とは何か?それは次で説明する「類化性能」的思考に隠されている。

①東洋占術の心得

折口信夫氏は、「別化性能」と「類化性能」という言葉を提唱した。

「別化性能」とは、とある事物XとYの違いを見出していく思考法で、例えるなら「動物」と「人間」は違うといったところか。

対して「類化性能」とは全く関係性のないAとBに共通点を見出していく思考法である。先程の「動物」と「人間」も一見異なって見えても同じ生き物であり同じ自然の一部であるといった考え方だ。

レオナルドダヴィンチは、川の流れと人間の血液の流れに類似性を見出し解剖学を発展させたようだ。まさに類化性能的思考である。

しかしその意識は近代化につれて薄れていく。

「粗い石」という中世の修道院造りについて詳しく書かれた本を読んだ事があるが、中世時代の建築は全て他でもない修道士が行っていたというのだ。組織の発足からデザイン、設計、建築まで一通り修道士が行ったというのだから、すごい。しかし近代化するにつれ分業化されていき、「企画」「設計」「デザイン」「建築」と分かれていくのである。

音楽史の面でもそれは通用する。昔、歌と踊りは一緒だったのだ。日本音楽も田楽や猿楽などを起源としており、神々に奉納するためのものであったはずだ。音楽=感情というのは科学的に証明されていて、感情の昂りを体や声を使って表現するものが音楽であった。

しかし時が経つにつれ、踊りは舞踏になり、歌は音楽となり、詩は文学となっていく。

こうして考えると、いかに古代は混沌としていたかが分かる。秩序と混沌、まさに秩序=近代 混沌=古代である。

そうして分かれたはずの全ては一つに集約し、回帰していくのだろう。

この「類化性能」こそ最も大事な思考法であり、古代人の知恵の結晶である占術を知るにあたりかなり重要なのだ。

折口信夫氏の本は日本の土俗的文化の源流をしれるのでお勧めです。