オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「科学」 と 「宗教」

2022年09月30日 | 思想・思考
 昔々、神に遇ったり啓示を受けた人がいて、「その人」の言動によって「宗教」が生まれました。「その人」は神の言葉をそのまま言っているだけなので「その人」には何の罪も無いのですが、「その人」の話を聞くのが単なる人間だったせいで、「宗教」に多くの解釈が生まれて宗派分裂を繰り返し、互いに殺し合いが始まりました。


 「宗派」による最も大きな教義の違いは、「人は、神に無条件に従うべき」と「神は、無条件に人を救う」です。これを言い換えると、「神に従い、救われる」と「死は、神の救いである」です。

 但し、その時の「神」とは、最初に啓示を受けた「その人の神」ではなく、「その人」の話を聞いた人間の解釈する「神」です。「十分の一税」で巨大化した宗派の解釈する「神」もいれば、全財産の寄進を迫る宗派の「神」まで、「理路混然」とし「種々雑多」です。

 「神」に絶大なる包容力が有るかどうかは分からないのですが、「神」に対する正反対の解釈が有るにも拘らず、始祖や預言者は別にして、教祖・宗祖や宗教学者が神の裁きを受けたという話は聞いた事が有りません。何時も聞くのは、信者同士の暴力的な裁き合いですが、その、他人を裁いた信者が神に裁かれたという話も聞いた事が有りません。

 「無神論」を展開する科学的共産主義者の裁きは「粛正」と言いますが、これも何をどう信じるかの解釈の違いに過ぎません。共産主義も宗教と同様に、殺し合いによって生き残った方を「正しい」とするのが正しいようです。それは当然で、生き残った方が間違っているのなら、共産主義も宗教も権威を失い、存続不可能と言えます。

 「科学」の場合は、本来は「定説は間違っている」と考えるところから始まるので、新説の間違いは許容され、寧ろ旧説の方が正しいかも知れませんし、単に正しいように見えているだけかも知れません。

 「マスク真理教」の信者は、日本でコロナ感染者が少なかった時には「マスク着用のお陰」と言っていましたが、感染者数が世界一になってからは「マスク着用はマナーだ」として、いずれにしても「ノーマスク」の人をポアする事で昇華しているようです。

 マスク効果をコンピューターシミュレーションで、恰も「科学的」であるかのような解析をし「正しさ」を主張した学者もいたのですが、それは最初から「マスクには感染予防の効果が有る」との先入観から、パラメータ(引数)を調整した結果かもしれません。その学者が「マスク真理教の信者」ならやりかねません。

 1776年に設立した宗教由来の「イルミナティ」は、厄介なことに「科学」を信奉する「宗教」だったようで、「科学的宗教」と言えるかもしれません。これは「科学的共産主義」と同様に、その名称自体に内部矛盾を含んでいます。

 「共産主義」は絶対に正しいとされ、「宗教」は信じる人には正しいとされ、「科学」は間違っている事を前提にしています。つまり、「科学的共産主義」とは、共産主義が間違っている事を前提に成立していると言えます。

 「イルミナティ」は「科学的(唯物論的)宗教」である事から、成立後間もなく崩壊(1785年)し、地下に潜ったとされています。1919年に成立した「コミンテルン」も「科学的(唯物論的)思想」なので、設立後間もなく解散(1943年)したのですが、地下に潜らずに、各地に散らばった支部が革命を継続しようとしています。

 現在に至るまで、科学を信奉する思想家や宗教家が、科学とは「間違いを前提に成立する学問」である事に気付いていないようです。



「君主」 と 「民主」

2022年07月25日 | 思想・思考
 「民主主義」は民(たみ)に主権があるのですが、「民」には二種類あり「国民」と「人民」です。「国民(=nation)」は国の民なので解りやすいのですが、「人民」の場合は更に二種類あります。

 「人民(=people)」は、所謂「民主主義国に住む住民」で、アメリカ合衆国(合州国)やEU(欧州連合)に住んでいる人です。

 「人+民」の場合は、一部の人民共和国の様に、独裁主義国を構成する「支配層(=human)+隷属民(slave)」を意味します。

 通常「君主」は「国家を治める最高位の人」を意味するのですが、日本国憲法では国民が最高位の人々なので、「君(きみ)」は国民を意味します。

 伊弉諾(いざなき)と伊弉冉(いざなみ)や、翁(おきな)と嫗(おみな)のように、「き」は男を「み」は女を意味し、「きみ(=君)」は人の男女(民とは限らない)の総称を指すとされています。

 その意味からすると、日本語で日本国に対して言う「君主政治」とは「国民による政治」となり、外国では一般的な「王権政治」とは正反対の意味になります。

 これは、日本の神道では「神は萬物に内在する精霊」を意味するのに対して、多くの一神教で言う「神は萬物の創造主」であるのと同様に、「神」が正反対の意味になる事からも理解できます。


 君が代

君が代は 千代に八千代に
さざれ石の いわおとなりて
こけのむすまで


 「君が代」は、和歌(詠み人知らず)を明治になって儀式用の楽曲に使われ、昭和になって国歌として定着したとされています。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化されたのですが、国歌としては世界最古(約千年前)の歌詞だそうです。

 ところが、「君が代は天皇を讃える歌だ」として忌避する人がいるようです。但し、そう云う人に限って「護憲派」が多いのですが、憲法を無視している事に気付いていないようです。


 憲法第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


 「国民の総意」で生まれた(実際はアメリカから頂戴した)憲法に「天皇は国民統合の象徴」とされている上に、天皇は男系男子であることは皇室典範に書かれている事から、「天皇は君(男女)では無い」ことは明らかです。


 皇室典範第一条
皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。


 若しも、天皇を「欧米中式の君主」と信じているのなら、その人は「日本国憲法」を外国語で理解している事になります。勿論、「日本国憲法」は元々は英語なので、私はその人の気持ちを理解できない訳では無いのですが、「悪法も法なり」なので占領統治法(通称、日本国憲法)でも、日本語で解釈して従います。

 例え最初に詠んだ作者が「君」を当時の日本の天皇や王朝を想定したとしても、それはその人の「君」であり、違う人が詠んだ場合は違う人が「君」になるので、多様性を押し付ける「多様性の無い人」に言われる筋合いは有りません。

 若しも「君が代」を天皇による治世と考えるのなら、憲法には改正条項があるので、「象徴天皇」から「元首天皇」に改正すべきと主張しても良いのですが、多くの日本人は外来憲法によって「象徴天皇」と信じているようなので、やはり「君」は国民一般を指すと解釈した方が正しいようです。



「神道」 と「宗教」

2022年01月04日 | 思想・思考
 「武士道」が武士のあるべき姿・行動規範を示すのと同様に、「神道」は神の道なので、「人が神に、その道を教える」事になります。

 その証拠に、神が人に何かを教えたという話は聞いた事が有りませんし、逆に人が美しい山や湖、或いは巨木や巨石を見ると「神が宿る」と感じます。人が感じないと「神」は存在し得ないので、人によって「神」は創られ、その居場所を与えられると言えます。

 偉大な人は、多くの場合その死後に、その他の人によって「神」と呼ばれる事が有ります。だからと言って、必ずしもその子孫が「神の子」とは言われません。つまり、「神」が何かを創造するのではなく、人間が神を創造していると考える方が「科学的」と言えます。

 「神道」の神は人には何も教えてくれませんし、物理的には何も与えてくれません。但し、何かを感じ取る事は可能です。「キリスト教」は、ナザレのイエスが起こしたとされる「奇跡」を信じる人によって広められた「宗教」であり、おそらく、イエス自身は「キリスト教」の開祖では無いと思います。

 ユダヤ教を信ずる人が「旧約聖書(当然、人が書いた書物)」に書かれている「ただ一人、罪のない人(本来は、人間には原罪がある)」はナザレのイエスであると信じる事でキリスト教が生まれたとされています。当然、人々が信じただけなので解釈は様々有り、分派も発生して殺し合いを始めました。

 それらの分派を「宗教」というのであり、「神の教え」で殺し合いを遂行しているとは思えません。イスラム教は、神からの「最後の啓示」を受けた預言者ムハンマドが開祖で、以降「預言者」は現れないと決定づけられています。

 つまり、「モーゼ」「イエス」「ムハンマド」の三人しか(唯一)神からの「預言」を授かった人は存在せず、若しも新しい宗教を開始する人間が現れたら「神を冒涜する者」として神からの制裁を受ける事になります。それは、ムハンマドが神から直接聞いた話なので間違いは無いと思います。イスラム教では、ムハンマド以外に、この二人の預言者の存在も認めています。

 と言う事は、「神道は宗教ではない」と、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は保証している事になり、若しも「神道は宗教である」と主張する人がいたり、宗教として扱う法律が有るとしたら、「宗教戦争」を覚悟しなければなりません。何故なら、「神道」では神は無数に居て、一神教の原理(主義)とは相いれないからです。

 「ヤハウェ」「ゴッド」「アッラー」は呼び方は違っても、世界(宇宙)を創造した同じ「唯一神」です。一方「神道の神」は多神教の神でも無く、有形無形を問わず、全てのモノに内在する(と、各人が感じる)神なので、何も教えないし神数(人数)も不定で、「0~無限」まで容認していて、当然「0、1」の場合は多神では有りません。

 この融通無碍な世界観が「神道」なので、これを「宗教」と思う人は総てを独善的に決め付ける「共産主義教の信者」くらいだと思います。ところで、この「融通無碍」を調べると、

「由来は仏教用語で、この世に在るものは全てが繋がっていて、互いに影響を与えている。」

という意味だそうです。やはり「仏教」は何でも教えてくれるので「宗教」かも知れません。ちなみに「宗」の意味は、因明でいう「宗・因・喩・合・結の一つで、論証しようとするその命題のこと」らしいです。

 どうやら「仏教」は、元を糺せば「宗教」では無く「学問」だったようで、宗派対立が起きて初めて「宗教」が成立したのかも知れません。



「LGBTQ」 と 「WXYZ」

2021年11月05日 | 思想・思考
 世間では「ジェンダーフリー」が流行っている一方で、「性自認分類」が増え続けています。ジェンダーは「社会的性別」を意味するようなので、これに捉われない社会生活を国家が提供すると云う社会運動が「ジェンダーフリー」の理念だと思います。「ジェンダー」に捉われないのなら「分類」も不要だと思いますが、良くは分りません。

 「ジェンダーフリー」と「性自認分類」の同時進行は、一見すると個人の自由を主張しているようにも見えますが、分類したうえで違いを認めない「全体主義」にも見えます。哲学的には、総てを分類し矛盾をより高次に統合する「アウフヘーベン(止揚)」とも言えます。

L ;女性同性愛者(Lesbian)。
G ;男性同性愛者(Gay)。
B ;両性愛者(Bisexual)。
T ;外見身体の性別と内心性認識の不一致を自認する人(Transgender)。
Q ;性別を自認できない人(Queer)、客観的に不明な人(Questioning)。



(精神的多様性)
A :両性具有(Androgynos)

D ;性分類の否定(Denial-GenderClassification )

I ;半陰陽(Intersexuality)
(外見的多様性)



WX;生物学的に標準的な女性(XX-Chromosome)。
XY; 〃   標準的な男性(XY-Chromosome)。
Z ;最終的に総てに属さないヒト種で、誕生前や死んだ人も含む。

注)ここで言うWとZは、ヒト以外の動植物の性染色体とは関係ありません。


 この分類では「D(性分類の否定)」がジェンダーフリーの理念の様に思えますが、何故か、「LGBT・・・」を同時に主張する人も見受けます。

 これらは「ヒト種」に限った多様性で、動植物も、或いは神やモノも含めると、無制限に拡張できます。例えば「神のみを愛する人(テロリストも含む)」を多様性に含めると収拾がつかなくなります。

 「死後のヒト」の人権を認めると遺言書が無ければ火葬すらできません。法律で「死体は火葬する」と書かれていれば、当人の遺言書は必要ないかもしれませんが、法律で男女の区別は誕生後、医学的見地から速やかにに確定する事になっているので、「LGBTQ」や「WXYZ」も、法律上は瑕疵が無ければ変更無用で、考慮の余地は有りません。

 「内心の自由」は憲法で保障されていて、本人がどう思うかは自由で「そう思う」だけで十分です。例え、他人が「そう思わない」としても、それは他人の「内心の自由」なので、個人の多様性を認めるのなら、ジェンダーフリーを認めない事も認める事になります。

 「LGBT・・・Z」のどれかを互いに嫌いな人もいれば、関心のない人もいます。つまり、其々に「無関心」「嫌」「反」等の接頭語も必要になり、「精神的多様性」を認めるのなら、其々を「別の性自認」として分類する必要が有ります。

 現在は、男女を区別するだけで「男女差別」と言われる時代ですが、ジェンダーフリーを主張する多くの人は、個人を「LGBT・・・Z」に分類する事には不快感を持たないようです。それどころか、其々に分類される事を望む人もいたり、時宜に合わせて別の分類に変異する人も現れる始末です。

 生物学的な違いに分類して欲しいのか、総てを同一視して貰いたいのかも分かりません。更に、精神的な違い迄主張されても「勝手にすれば!」としか言いようが無いのですが、内心の自由は保障されているのでそれで十分だと思います。他人にジェンダーフリーを押し付けるのは止めて貰いたいと思います。

 国家としては、流行のSDGsを考えても、男女のみの「社会的な境界線」を引くだけで十分で、「性自認」は自認のみで事足ります。自然に社会が未来に繋がる為には、男女の組み合わせしか有りません。



「ビーガン」 と 「共産主義」

2021年06月03日 | 思想・思考
 「ビーガン」は、ヴィーガニズム(veganism)を主張する人たちで、現在の主流は「人間は可能な限り『動物』を搾取することなく生きるべきである」という主義の持ち主のようです。「ヒト」や「菌類」、また「死肉」或いは死肉か変質した「石油」などが「ビーガンの主張する動物(由来)」に含まれるかどうかは判りませんが、卵や牛乳も避けるそうです。

 当然、動物ではない「牛乳」や「無精卵」を避けると云う事は「動物由来のモノ」を含むと考えられますが、自然に抜け落ちた「羊毛」や「排泄物」が含まれるかどうかは不明です。但し、「搾取」の意味からすると「排泄物」は含まれないとは思いますが、「羊毛」は微妙です。

 これらは、「動物(由来)の搾取」と云う定義の不自然さが齎す「混乱」で、例えば「野菜」や「木の実」は、その栄養素の多くは「二酸化炭素」を含めて動物由来で、受粉も多くは動物由来なので、「ヒト」は植物を食べる事は出来ません。当然乍ら、多くの植物は動物の食料であり、その循環(食物連鎖)に「ヒト」が介入する事を「奪取」と言い「搾取」を凌駕します。その一部を「ビーガン」も認めていて、「ハチミツ」も忌避する場合が有るようです。

 何よりも、会社を含む「社会の構成」自体が「動物(ヒト)由来」です。「ビーガン」は社会を構成する事は出来ないし、ましてや会社を経営する事などとんでもない話です。資本主義での「会社」は、他人資本で従業員を強制して成り立ちます。共産主義での「社会構成」は更に悲惨で、「共に生産する社会」に馴染めない人民は、粛清されます。

 「ヒト」には犬歯が残っていて、この事は「ヒト」がまだ自然における「食肉動物」である事を示しています。「イヌ」は「ネコ目(ネコメではない)」です。「ネコ目」は学名:Carnivora(食肉目)と言い、本来なら「猫歯」と言うべきかもしれませんが、兎に角「ヒト」には食肉用の歯が有ります。

 「犬歯」は「糸切り歯」とも言い、糸を切っても歯が折れたり抜けたりしない程丈夫に出来ていて、多くの場合、老化しても最後まで残っているそうです。「ビーガン」にも犬歯が残っているかどうかは見た事が無いので分かりませんが、少なくとも動物由来の「絹糸や羊毛の糸」、石油由来の「化繊の糸」を切る事は「
道義的」に出来ないと思います。

 このように、自然由来の「犬歯」が有る「ヒト」に対して、普遍的に「人間は可能な限り『動物』を搾取することなく生きるべき」と、「問題の無い所に問題を創り出す」のを「サヨク思想」と言い、その行き着く先は自然の法則を無視した「共産主義」です。

 「共産主義」を維持するためには「問題」が必要で、「問題」が解決するたびに更に大きな「問題」を必要とします。それは、「共産主義」が進化論を拠り所にしている事に原因があります。この場合の「進化論」は自然淘汰的な進化ではなく、より新しいモノはより正しいとする「人為的な進化論」です。

 自分が生存中に進化しなければならないと云う「強迫観念」によって、常に「新しい問題」を創り出し、これが「脳内循環」しているだけなら、マルクスの様な「立派な学者」と呼ばれますが、これを実践すると、自然の法則に反する「問題解決」によってさらに大きな「問題」が生じます。

 領土紛争では、長年の英知で培った「国際条約」を無視し、新機軸を持ち出して領有権を主張します。支那大陸では「皇帝の意志は天の意志である。」から「過去に中原を支配した皇帝が領有した地域は、全て現在の皇帝の領有地である。」を経て「中原の皇帝が領有を宣言した地域は、皇帝の領有地である。」が現在の主張です。

 当然、将来は「皇帝が宣言するまでもなく、天命により地球そのものが皇帝の領有地である事は自然現象に過ぎない。」となります。

 これに対抗するには、「問題を解決しない事」です。若しも中華皇帝と周辺諸国との間に「領有権問題」が有る場合は、「領有権」を死守するだけで「皇帝の無能さ」を証明することが出来、天命である問題を解決できない皇帝」は引きずり落とされます。

 逆に、皇帝に対して妥協し「問題」を解決すると、更に大きな「問題」が提起され、皇帝の天命も大きくなり、これを繰り返す事で「地球は天使(皇帝)の領有地」になります。

 「ビーガン」も、当初は「動物が可哀そう」から始まり「菜食主義者」になり「動物由来の食事の禁止」更に「動物からの搾取を禁止」まで言い始めました。

 将来は当然「人間に対する賃労働(常識的な雇用)を禁止」し「資本論」に繋がり、後はスターリンの出番を待つばかりになります。