双極性障害の薬剤師です

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双極性障害との戦い 家出編

2021-02-18 20:19:04 | 体験談
父親から心無い言葉を言われ、荷物をまとめ家を飛び出した。

その日は漫喫に泊まり、1人暮らしができる家を探した。

お金はある、学生の頃から貯めていたお金があったからだ。

だがしかしここで2つの壁にぶつかる。

1つは保証人が必要だということ。

もう1つは職業だ。

無職ならなおさら保証人が必要になる。

しかしこの2つをクリアできる会社が1つだけあった。

レオパレスだ。

家具もそろっていて手ぶらで引っ越しができてしまうレオパレス。

前金として契約した分のお金を払えば保証人も職業も関係なかった。

私は迷わずレオパレスの訪問予約をとり、次の日レオパレスの店舗へ足を運んだ。

何か所か物件を見せてもらい、家賃など条件が良いところを決めた。

初めての1人暮らし、初めての父親からの開放、もう期待しかなかった。

ここで1人で自由に暮せば、きっと病気も良くなる。

そう思っていた。

不安など一切なかった。

こうして人生初の1人暮らし+療養の日々が始まった。

次回、番外編として『私の彼氏』の記事を書きたいと思います。

双極性障害との戦い 家族の理解

2021-02-17 17:09:07 | 体験談
某大手食品メーカーを退職する際、別に両親に特別相談はしなかった。

このとき26歳。

自分の進路くらい自分で決める歳だ。

ただ退職してこれから家で療養するとなると話さないわけにはいかない。

私は今までの経緯を両親に説明した。

母親は黙って聞いていた。

激怒したのは父親だった。

『なぜ勝手に辞めたんだ!』

大学院についても某大手食品メーカーについても、何も相談されずに辞めたことが気に入らなかったらしい。

母親がなだめる。

それでも父親の怒りはおさまらない。

昔から1度怒り出すと止まらない人だった。

『病気のこともあるし、なにより死ぬ直前まで頑張ったんだからもういいじゃない!』

母親はこう言ってくれた。

この言葉に対し、父親から信じがたい罵声が私を襲った。

『死にたいなら勝手に死ねばいい!!』

私は自分の耳を疑った。

血の繋がった父親が、娘に対して、死にたきゃ死ねばいい?????

そんな言葉いったいどこから出てくるのだろうか…

挙句の果てに父親は私にこう言った。

『○○(私)はそんな変な病気になるような子じゃない。強い子だ。今からでも遅くないから某大手食品メーカーに電話して退職を取り消してもらえ。』

双極性障害=変な病気…

確かに親の世代では馴染みのない病名。

しかしちゃんと双極性障害についての資料も渡してある。

強い子だから…強い子だからこそ我慢が重なりなってしまう、うつ病、双極性障害。

それよりなにより、実の父親から『死ね』と言われた以上、ここに安息の地はない。

私はその日のうちに置き手紙と貯金通帳と少しの着替えをボストンバッグに詰め込み家を出た。

ここから本当の私の療養生活への第一歩が踏み出されたのだ。





双極性障害との戦い 某大手食品メーカー編

2021-02-16 18:02:10 | 体験談
大学院を中退し、某大手食品メーカーの検査部門に入社した。

製造したものがエラー品でないか試験をして調べる仕事だ。

学生の頃から実験が好きだった。

なので仕事はとても楽しかった。

もちろん合わないなと思う先輩もいたが、ほとんどの先輩は丁寧に優しく教えてくれた。

鬱っぽい日もあったが、薬を飲みながらなんとかやっていけた。

このまま順調にいくと思っていた。

事件はある日突然起きた。

手の震えがとまらない…

これは炭酸リチウムの副作用だ。

細かい作業が多い実験。

手が震えることで失敗や器具を割ってしまうことも多くなった。

『○○さん(私)、ちょっといいかな?』

所長からとうとう呼ばれてしまった。

『何かあった?大丈夫?』

所長は私を責めることなく、逆に心配をしてくれた。

病気のことは隠していたため、本当のことは言えなかった。

『ちょっと眠れない日が続いていて…』

この言い訳でその場はなんとか乗り切った。

もう隠し通すのは限界だ、ちゃんとこの病気と向き合おう。

ここでようやく療養に入る決意ができた。

ここでまた心療内科の先生に診断書を書いてもらい、所長へ提出した。

所長からは、退職はもったいない、休職にしたらどうだ、と提案されたが、休職だと休める期限が決まっている。

期限が決まってしまうと焦りにつながると思い、退職することに決めた。

これで心の底から休める…やっと開放される…

その考えは甘かった…

家族に病気への理解がなかったのだ…

心無い言葉、罵声…

次回、療養への壁〜家族編〜を書きたいと思います。

双極性障害との戦い 大学院編④

2021-02-15 12:19:38 | 体験談
合格発表から半月後、入学式に出席した。

同期は私を入れて3人。

みんな違う部屋の子だ。

しかも男の子。

つまり、私の部屋には院生は私1人きりなのだ。

※中堅薬学部は院生が異様に少ないのだ。

この日から、大学院生1年生としての日々が始まった。

指導教員は学部生の頃と変わらず助教授。

しかし、部屋のトップは教授だ。

『1週間に2本、論文発表してね』

薬学部生は国家試験に受かるために大学に通っている。

論文を読んだことがないわけじゃないが、まずなんの論文を読んだらいいのかもわからない。

ましてや英語論文なんて読んでまとめてスライドを作って…となると数日かかる。

助教授がちょっととばし過ぎじゃないかと言ってくれたが、方針は変わらなかった。

私は教授に直談判した。

『まだ慣れてないから、せめて2週間に1本にしてくれ。』

かなり嫌な顔をされたが、なんとか許可を得た。

このことを言われた日から、論文、論文、論文、頭の中も論文、論文、論文…

23時近くまで研究室に残って論文を読んでいた日もあった。

部屋に先輩もいない、同期もいない…

きっと先輩や仲間がいたら、この壁も乗り越えられていたのかもしれない。

しかし、ここには私1人…

1人ぼっちだった…

『こんな論文も読めない自分なんて、院生として向いていない、自分はダメな人間なんだ…』

また自己否定が始まる。

『生きている意味はあるのか?』

だんだんそう思うようになってきた。

あのとき買ったロープの存在を思い出す。

『こんな日々が続くなら死にたい…』

自殺願望が芽生える。

孤独な日々と論文に追われる日が続いた。

壊れていく心の声も聞こえる。

『…辞めたい』

薬局も辞めて、また辞めるのか?
辞め癖がついているだけじゃないのか?

辞めることに抵抗があった。

しかし…

ある日、ついにロープに手をかけてしまう。

首を絞めた…

薄れていく意識の中…

『死にたくない!』

心の声だった。

あのとき死んでいれば…もう苦しまずに済んだのかもしれない。

あのとき途中でやめたことが正解だったのか…今でも疑問だ。

このとき、私は大学院を辞めようと決めた。

死ぬか、辞めるかの2択だった。

そう決めた次の日、通っている心療内科へ診断書をもらい、大学へ提出した。

このときも、今思えば、誤った選択をしてしまった。

療養に入ればいいのに、変なプライドからか、『働いてないといけない』という考えが頭に浮かんだ。

そこで就活をし、某大手食品メーカーの検査部門に内定をいただいた。

ここで、私がちゃんと病気を治そうと決意する出来事が起こる。

次回、某大手食品メーカーでの出来事を書こうと思います。



双極性障害との戦い 大学院編③

2021-02-14 08:05:49 | 体験談
試験を受けてから3日後、担当教授から電話が来た。

『合格よ!おめでとう!』

先生の少し甲高い声が受話器から響いた。

『…ありがとうございます』

なぜだろう、全然嬉しくない。

むしろモヤモヤが出てきた。

この3日間、あんな酷いプレゼンをしたなら、落ちてるかもしれない…落ちてるといいな…

私の『大学院で学びたい』という気持ちはこの3ヶ月の準備期間と試験当日に受けた仕打ちですっかりなくなっていた。

4年間(薬学部の場合、学士期間が6年間なので、大学院は4年間になるのである)耐えられるのだろうか…

1つのことが終わればまた次の不安事が出てくる。

エンドレスだ…

その間、大学院試験関連のストレスから薬はどんどん増えていった。

薬が増えるということは…副反応の眠気も強く出て1日中寝ている日が多くなった。

こんなんで普通の学校生活が送れるのか…

今思えば、薬局を退職したあとは療養に入るべきだったと後悔している。

合格を喜ぶ先生、親…

私の心はどんどん苦しめられていった。

『もう薬局みたいに途中で辞めるわけにいかない』

このプレッシャーが私を闇の中へと引きずり込んでいった。

次回、孤独と戦い抜いた大学院生活を書きたいと思います。