オークションで買ったみかんが届いた。
運送屋さんにおすそ分け後の写真。
私の家は昔からミカンなどは箱買い。これは普通の事だと思っていたが、この間甥に会った時普通の事じゃないと言われた。
私の父は(もうとっくに死んで居ないが)毎年一年かけてしめ縄を作り、それを年末27日頃から大阪京橋の商店街の(年末は店が閉まる)店先を借りて売り、そのお金で歳を越していた。
31日は最終日、作ったお金で、同じ商店街にあるあちこちの店で買い物をして帰って来た。だからミカンは箱買い、一年に一度私は新しいズボンも買って貰った。
その頃一部を除き貧乏人ばかりて、年越しは大仕事だった。
うちは、貧乏ではあったが、父は、日頃から私達に"腐っても鯛は鯛"だと言い聞かせていた。
戦争前に家族は生駒山中腹の故郷を離れ、大阪の中心地に近い場所で、カフェを開いて従業員十人くらいを雇い、流行っていたらしいが、戦争で焼き出され田舎の生駒山麓に疎開、その後そこに落ち着いた。
私の父は元々ぼんぼんだったが、それから苦労が始まった。
私が生まれ家族は六人になったので、それは大変だった事だろう。
お金は無いけど、見栄を張って生き続けなければならなかった。(それは、今私が思うことだが)彼らには、生活のレベルを落とさずに、行くと言うことに拘りがあった。
私を私立の幼稚園、小学校に通わせ、姉を私立の有名女子大へ。兄二人と、父は私達の為に必死で働いてお金をつくってくれた。
服や靴は全て誂え、私は小学校から革靴を履かされた。
小学校は、家の前にあったが、近所の柄の悪い子らと一線を引き、一駅電車に乗って私立の学校へ。"貧乏人のお嬢さん育ち"だった。
偶々とした生活をする事に抵抗があったのだ。とは言え、そうしていくのは大変困難な事だったように思える。
その名残が、今の私。箱買い❗️(^_^)
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