Yuki Matsumotoのブログ

読んだ本、観た映画、行った場所、食べた物などの感想ブログ

4回目「透明な迷宮」(平野敬一郎:新潮文庫)

2019-09-30 23:27:09 | 読書

巻末に平野敬一郎のメールアドレスが載っていって「小説の感想などもお待ちしています」なんて書いてあったから感想を送ろうかなと思う。

6つの短編が収録されている。

初めて読んだ作者で、なんとなく文体が三島由紀夫ぽいと感じて後でネットで調べたら、確かに「三島由紀夫の再来」と言われたことがあるらしい。

ネットの情報と自分が感じた感覚が会っていて妙にほっとする。あながち、的外れなことを言っていないぞという安心感みたいな感じだ。

個人的に6つの短編の中で一番面白かったのは、最後に収録されていた「Re:依田氏からの依頼」

三島由紀夫の文体と似ているって書いたけど、まさにその三島由紀夫の戯曲が小説中に出てきます。

愛人とタクシー乗車中に交通事故に遭い、その事故で愛人は死に自分は生き残るのだが、事故の後遺症で時間の感覚がおかしくなってしまう劇作家のお話。

時間が過ぎるのが長いと感じる主人公の心理描写が巧かった。

自分も学生時代、飲食店でバイトしていたが、つまらないバイトでは時間が経つのが妙に長く、え、まだ出勤して2時間しか経ってないの!?みたいなことを考えたことがある。自分の場合は下らないたかがアルバイトの経験だけど、劇作家、演出家の主人公にとっては深刻で致命的。演出家なんて、舞台の時間をどう捌くかがかなり重要なのに。その葛藤と苦悩、それを乗り越えるための工夫、そして諦念が明晰な文章で説明されていて面白かった。筒井康隆の短編にも同じような題材の作品があったがように思うが、あっちはSFドタバタコメディで単純に笑った。こっちは、笑いはなくてシリアス。

また「時間」や「他人とのコミュニケーション」について深く考えさせられた。

ちなみに、この短編は構成が他に収録されている短編より若干複雑で、上記のエピソードは、ある小説家によって書かれた小説であり、その小説家と劇作家の出会いから再開までを含めて、一つの小説になっている。ああ、なんか意味が分からないかも。文章力下手ですみません。劇中劇みたいなものです。

その他、表題作は、読んでいてキューブリックのアイズワイドシャットという映画を連想した。

「火色の琥珀」炎に性的快楽を見出す少し変態な主人公のお話。内容はただの変態のお話なのに(性器に根性焼きしてエクスタシー感じたりする)、文体が高尚なので、なぜか内容も高尚に感じてしまう。同じテーマで別の作家が書けば、ギャグになったかもしてない。

family affair」これも面白かったけど、ラスト近くで主人公のオバサンがオナラしたのがよくわからなかった。


2回目 「塩狩峠」(三浦綾子:新潮文庫)

2019-09-10 15:55:35 | 読書

「塩狩峠」(三浦綾子:新潮文庫)

 敬虔なクリスチャンの父母の元に産まれた青年が、様々な人との出会いと別れの中で成長し、自らも敬虔なクリスチャンになり、最後は列車の事故から自らの身を犠牲にして乗客の命を守り死ぬ、という物語。

要するに、一人の人間の幼少期から死ぬまでの一生を描いた作品で、かなり読み応えがあった。人間の一生を描いているので当然、長い小説なのだが、途中で中だるみすることもなく、最後まで読めた。言葉に物語を牽引する力があるのだろう。

ただ「キリスト教」及び「キリスト教信者」を美化しすぎているのでは、との感想も当然抱いた。もちろん、キリスト教意外の他の宗教を直接的に批判しているような箇所はない。むしろ、他宗教の批判と取られぬように気を遣いながら書かれている部分もかなりある。宗教を信じていない人間が宗教というものに持つ違和感(例えば、クリスチャンになる前の主人公が、母、父、妹の3人が食事前に「アーメン」と言って神に祈るのを黙って見ながら、居心地の悪さを感じる場面など)も、主人公の心の葛藤と共にきちんと書かれている。特に熱心なキリスト教徒である母・菊の人物造形に、それを感じる。キリスト教を信じていない人から見れば、当然抱くであろう疑問や懐疑、或いは無宗教者が宗教全般に対して嫌悪感やある種の胡散臭さを感じてしまう事を否定するわけではなく、「無宗教の人がそのように思うのも当然」と一定の理解を示したうえで、それでも自分たちの信仰を遂行するキリスト教信者、という描かれ方をされているからだ。先に、無宗教者・他宗教者・反キリスト教者の立場を理解した上で、「自分たちはこういう信仰です。信じるか信じないかは、あなたに任せますが、信じて頂けると母はとても嬉しい」と言われると、それ以上はなにも言えまい。このように無宗教者・他宗教者・反キリスト教者に対しても配慮が行き届いており、単なるキリスト教のプロパガンダ小説とは一線を画しているにも関わらず、やはり、先に書いたように、少なからずの「キリスト教を美化しすぎているのでは」との感想を抱いてしまったのは何故だろうか。

 第一は、やはり作者の三浦綾子氏自身がクリスチャンであったことが大きいだろう。三浦綾子氏に限らず、全ての人は完全に公平な視点で物事を考えるのは不可能だ。「自分は俯瞰している」「自分は客観視している」と「自分」で思ってしまう生き物である。それが主観的であることに気が付かないのだ。プロの作家とて例外ではあるまい。作家が育ってきた環境、積み上げてきた経験などは、意図しなくとも作品に影響されてしまう。自身が敬虔なクリスチャンであったという事実が、作家の意図していない無意識の部分で、キリスト教を持ち上げてしまっている気がしなくもない。

 第二は、読者である自分自身の問題だ。自分も少年時代の主人公・信夫と同じように、宗教というものにかなりの疑問を感じていた時期があった。個人的な話で申し訳ないが、自分の家も母親がかなり熱心な仏教徒で(S学会ではない、念のため)朝も夜も仏壇に向かって題目を唱えており、自分も仏教を信じるように母親から口うるさく言われてきた。元来、猜疑心の強い自分は、科学的な根拠のない宗教に依拠している母親にも宗教そのものにも、反発心を抱いていた。一方、物心がつく前から仏教が日常生活の中に根付いていたのも事実であり、完全に否定しきれない愛着のようなものは今でも残っている。例えば、神社で賽銭箱に賽銭を入れたり、おみくじを引いたり、クリスマスを祝ったり、といった一般の人が深く考えずに行うようなことでも、母親が属している宗教では禁止されているため、自分が行うことには抵抗がある。宗教的とされる行為に対して、一般の人よりもかなり敏感なのだ。そして今現在は、母親の属している宗教に対して、完全には否定しきれない部分と、完全には受け入れられない部分、相反する二つの考え方が混在しており、その時の気分によって微妙に揺れ動いている。

以上のような事情があるので、少年時代の信夫に感情移入するのは容易だった。両親や妹といった身近な人間が熱心なキリスト教徒であるにも関わらず、自信はその信仰に素直に飛び込めない信夫の葛藤が、よく分かるのだ。しかし、信夫の場合、案外早くにキリスト教を受け入れ、さらには、教会で説法(?) する立場にまでなり、他の信者たちから絶大の信頼を得るような人物になる。街中でキリスト教の演説をしている伊木という男に出会い感銘を受ける事が、信夫の心がキリスト教に傾くきっかけであるが、そこから、本当に信者になるまでが、やや性急過ぎる。自分の場合、30歳を超えてもまだ母親の属する仏教に踏ん切りが付かず、信仰心と懐疑心の間を行ったり来たりいている状態であるのに、信夫はすんなりとキリスト教信者になってしまう。しかも慈悲心に溢れた非常な人格者にまで成長する。読者である自分と、主人公である信夫を、このように対比させた時、やはりキリスト教の方が仏教よりも求心力があると小説の中で言われているような気がしてしまった。要するに、キリスト教には信夫を改宗させる力があるが、仏教には自分を取り込む力がない、と感じたのだ。これが、第二の「キリスト教を美化し過ぎているのではないか」と感じた理由だ。要するに、自分自身の問題だ。

 また、この小説はキリスト教を他の宗教に置き換えても成立するのではないか。かなり大胆なアレンジになるが、例えば、主人公が聖書ではなく、法華経の教えや日蓮の御書を読んで感銘を受け、他人に優しく自分を厳しく律する人間に成長し、最後は自己犠牲の精神で乗客を助ける、というような話にしてもこの小説で作者が描きたかった事は、描けるのではないだろうか。つまり、キリスト教である必要はなく、さらには宗教である必要もなく、単に倫理・道徳を重んじる人間を描けば、それはそれで一つの物語として成功するのではないか、とも思った。

 色々難癖をつけたが、やはりこの小説は今の若い人たちに読んでもらいたいと思う。現代は、昔に比べてかなり「ヤバい」時代であることは、皆がどことなく感じているだろう。インターネット上では他人を罵詈雑言する言葉が氾濫している。老若男女問わず、全ての人間が精神的に未熟になっているようにも思う。自己中心的で視野狭窄的で排他的で差別的で傲慢で卑屈で卑怯になっている。確かに「塩狩峠」の小説の中でも、卑屈な人間や差別的な人間は登場する。キリスト教じたいが「ヤソ」と呼ばれて差別されている描写は「塩狩峠」の中でもたくさん出てくる。しかし、やはり現代および現代人が抱える問題と「塩狩峠」の時代のそれとは、本質的な違いがある。こんな時代だからこそ、良い小説を読めば、少しは良くなるのではないか。「塩狩峠」は良い小説なのだから。

 結論が抽象的すぎるが、これくらいにしておく。


1回目「コンビニ人間」 (村田沙耶香:文春文庫)

2019-09-07 21:27:07 | 読書

「コンビニ人間」(村田沙耶香:新潮文庫) 現在進行形で活躍されている現代作家の小説は、ほとんど読まない。別に読まないと決めているわけではないが、あまり食指が動かない。現代作家の書く小説は、活字離れが著しい現代において、どこか「読みやすさ」「わかりやすさ」のみに重点が置かれているように思える。また、表面上は難解な風を装っているが、中身はスカスカな小説が殆どであるような気もする。自分は「不可解な事」「わかりにくい事」に魅力を感じる捻くれた性癖の人間なので、現代作家の書いた現代小説は敬遠してきた(学生時代からのファンである町田康は例外) しかし、読まず嫌いなだけで「現代小説=わかりやすい小説」と一括りにするのは愚の骨頂だ。また、読んでみると新たな発見があるかもしれない。 という事で現代作家が書いた「コンビニ人間」という小説を読んでみたのだ。 いかにも現代風なタイトルである。作者の村田沙耶香さんは、この小説で2016年に芥川賞を受賞されたらしい。作者の生年月日と受賞年から計算すると、30代の頃に書かれた小説だ。つまり、現代小説の中でも「最近」の部類に入るだろう。 30代後半になっても就職も結婚もしない女性が、コンビニでバイトをしている時間にのみ「自分の存在意義」というものを感じる。簡単に言えば、そんな内容。 ご多聞に漏れず読みやすく、分かりやすかった。「読みやすく、分かりやすい」ということを揶揄しているのではない。「読みやすい文章」「分かりやすい文章」を書くというのは、案外難しい。さらに、赤の他人である一般の読者を小説の世界に引き込み、熱中させるには「読みやすい」「分かりやすい」だけではないプラスアルファの技術が必要だ。「コンビニ人間」は平易な文章の中に、明晰な批評性が光る。そして、文章にセンスを感じる。「コンビニエンスストアは音で満ちている」という冒頭の文章が、何気ないようでいて、見事にコンビニという場所の性質を言い当てている。確かに、コンビニ店内というのは特異な空間だ。レジの音や自動ドアの開閉音、また、作中にもあるがペットボトルの飲料を取った際に、奥の飲料が動いてカラカラと鳴る音、こういった音は、いかにも無機質で味気ない。一方、店内に流れている有線は流行りのポップスで明るく楽しい音楽だ。さらに、生きた人間から出る血が通っているはずの店員の肉声は、実は、マニュアル化され、きわめて記号化された音であり、そこに発語者としての個性はない。そう考えると、肉声であるにも関わらず、レジの機会音以上に味気ない音である気もする。それら、多種多様な音が混ざり合ってコンビニの空間を形成している。冒頭の文章は、読み手にそこまでの想像を巡らせるだけの力があり、これから、このコンビニでどのようなことが起こるのかという、読者の期待を牽引する。 また、実際に作者にコンビニバイトの経験があるのかは分からないが、ディティール描写が緻密だ。同僚の喋り方が無意識に伝染したり、主人公がバイトしている期間に店長が8人辞めたり、などといった描写がなかなかリアルで面白い。 しかし、不満もある。 つまるところ、この小説は「普通の人間」と「普通じゃない人間」の対比が軸になっているのだが、対比の仕方が、小手先のように思う。 「普通じゃない人間」とは主人公と中盤に登場する白羽という男の2人であり、「普通の人間」はそれ以外の同僚や家族といった人たちだ。 登場人物全てが「普通」の人間で言動も性格も全てが「普通」であれば物語は成立しにくい。ストーリーに緩急をつけるためには「普通じゃない」人間を登場させ「普通じゃない」行動をとらせるのが、一番手っ取り早く、かつオーソドックスな手法だ。いわば、小説書きの定石のようなものだろう。主人公が「普通じゃない」人間なら、なお良い。「平常」と「異常」のコントラストを際だたせて、「異常」の方に読者の共感を得られれば、ひとまずその小説は佳作にはなるだろう。太宰の「人間失格」なんてものは、その最たるものだと思う。「コンビニ人間」もその種の小説だ。 しかし、「コンビニ人間」は主人公を「普通じゃない人間」として描こうとする作者の意図がやや強引に出すぎていて、しかも空回りしている。例えば、次のような描写がある。 主人公が子供の頃、友人達たちと公園で遊んでいると、小鳥の死骸を発見する。他の友達は、その死骸を見て「かわいそう」と言って泣き出す。しかし、主人公は、小鳥の死骸を見ても何も動じず、手にとって親の元に行き「これ食べよう」と言う。母親は困惑し、他の親は怪訝そうな顔をする。「死んだ小鳥はお墓に埋めてあげないといけない」と諭す親たちに対して、主人公は「お父さん、焼き鳥好きだから持って帰って食べよう」などと言いだす。 以上のようなシーンがあるのだが、自分はこのシーンが不満だ。 作者は「小鳥の死骸を見て悲しむ子供」及び「お墓を掘って埋めるように諭す大人」が普通の感覚を持った普通の人間で、「小鳥の死骸を見て食べようなどと突拍子もない事を言いだす主人公」は普通ではない異常な人間、とすることにより、「普通」と「普通じゃない」の対比を上手く描いたつもりなのだろうが、自分は、そうは思わなかった。 小鳥の死骸を見て「食べたい」と言いだす子供なんて、結構いるだろう。確かに健全な発想とは言い難いが、さして異常な発想ではなく、むしろ子供らしい素直な感覚に思う。さらに、それを聞いて絶句する親というのも、どうだろうか。この程度の事で、普通の(ここで普通という言葉を使うとややこしいが)親は絶句などしないし、「バカな事いうな」と言って叱るか、子供らしい冗談と言って笑いさえするだろう。 要するに、この程度のエピソードで「正常」と「異常」を対比させようとしたところに、作者の油断を感じるのだ。きつい言い方かもしれないが、読者を舐めているようにも感じた。小手先の描写で欺けるほど、読者は馬鹿ではない。もう少し練ってほしかった。 ついでに言うと、「正常」と「異常」或いは、「普通」と「普通じゃない」の対比だけで物語を紡いでいく一群の作品に、自分は不満を感じる。その手法がいかに手垢のついた手法であるかを自覚してほしい。 そもそも「正常」と「異常」の2種類で分けられるくらい人間は簡単ではない。「正常」と「異常」が複雑に絡まり混ざり合っているのが人間なのだ。だから、人間を描くことは難しいのだ。 その上で「異常」を描くならば、本当に読者が愕然とするくらいの「異常」を描いてほしいものだ。