聖書と共に

神との関わりこそ

今日は、「エマオの道で」デニス・キンロー著
(インマヌエル綜合伝道団出版)から抜粋します。
題目は「神との関わりこそ、私達の救い」です。

私は、救いがキリストの生ける臨在と切り離され、それ自体で存在し得るかの様にされる事に
戸惑いを覚えます。聖書全体を読むなら、救い主を抜きにした救いなどあり得ません。
主を受け入れるならば、救われるのです。
主から離れる事は救いから切り離される事です

救いとは、私達に人間の生涯に働く、生き生きとした神の臨在の結果なのです。

十字架の前夜、主は弟子達に言われました。
「誰でも私を愛する人は、私の言を守ります。
そうすれば、私の父は、その人を愛し、私達は、その人の所に来て、その人と共に住みます。」
            (ヨハネ14-23)
もし神の戒めが、主との交わりの条件を、はっきり説明しているとすると、ある人は、直ぐに救い
は信仰によるとしても、その継続は行い、即ち、律法に対する服従と言う、わざによるはずだと言い出すかもしれません。しかし、それも又、間違いなのです。
私達の、自分の内側には、神の戒めを遵守する事が出来ません。キリストを見出だす前の私達には、これはまさに事実でした。これは、クリスチャンになった後も変わらない現実なのです。
だから、私達は主を求める必要があるのです。

私達にできる事は何か?ではなく、キリストにお
出来になるのは何かです。それこそが重要なのです。
キリストが私達の生涯に介入される時、聖霊を伴って来られます。聖霊はホーリネスの霊であって
潔める力をもって私達に臨まれます。
聖霊は私達を造り変えて、キリストの様に生きることが出来る様にするのです。

私達に必要なのは、自分にではなく、主に目を
注ぐ事です。
信仰とは、ただ主に目を注ぎ続ける事なのです。

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