聖書と共に

私のいる所に、あなた方をも

今日は、「岩から出る蜜」(蔦田二雄)からです

まず、バックストン先生はヨハネ福音書の
14~17章までは聖書の至聖所です、と言って
おられます。すなわち、聖書全体の中心です。

ここから蔦田二雄先生の記事です。

 愛は、「偉大な理解力、洞察力である」と
言われる。主に最も愛され、又、主を最も愛し
ていた弟子として、自他ともに承認されていた
ヨハネは、新約聖書のメッセージの中心点を
くっきりと、とらえていた。

 主が言われる愛は、父の戒めを守る事にある
。アガペーの愛である。
 愛と真実(誠実)は、二元的なものではない。
戒めの伴わない愛は、あくまで概念に過ぎない
ものである。払う代価に応じ、戒めを守るのに
比例して、愛は深まって行く。

主は、「誰でも、私を愛する人は、私の言葉を
守ります。そうすれば、私の父は、その人を愛し、私はその人の所に来て、その人と共に住み
ます」と、おうせられる。これがクリスチャン
験の最高峰である。

 住まいーabode、アボード(住居)とは、神と
の交わり、神との、くつろぎを意味する。
「くつろぎ」とは、何という奥義であろうか。

 (キリストに留まれ=abide in Christ)

しかし、私達はアボード(住居)としての自覚を
持ちながら、歩んだ日は、どれほどあっただろ
うか。霊的に「貧しい小屋」の状態ではないだ
ろうか。

神が心を住居としている人間は、どの様なもの
であろうか。それは霊的に経験として「何か」
がある事が告白されている。
 凱旋させるものは、何だろうか。それは心中
の納得となっている神の愛である。

「神が、全ての事を働かせて」とは、例外を許
さない、どの様な事の中にあっても、の意味で
ある。
事態の好転だけが、勝利なのだろうか。
いや、困難と逆境の中において、自分の霊的
養分を十分に吸収することが出来る生活こそ
凱旋的生活である。

十字架がなければ、冠は無く、困難がなければ
勝利はなし。

ローマ書8章は本書全体の最高峰をなす部分で、
聖霊による生涯においては、キリストにおける
神の愛を突きとめる事ができる、と教えている
直感している愛だけが、勝利の秘密である。
内側の問題に目を向けて考えよう。

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